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三田西陵高校で講演した岡崎明美さん(左)=三田市ゆりのき台3
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三田西陵高校で講演した岡崎明美さん(左)=三田市ゆりのき台3
白杖(はくじょう)を持つ岡崎明美さん(左)=三田市ゆりのき台3
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白杖(はくじょう)を持つ岡崎明美さん(左)=三田市ゆりのき台3
岡崎明美さんが4種目で金メダルに輝いたことを伝える1989年9月19日の神戸新聞。旧姓・蒲生さんで登場している
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岡崎明美さんが4種目で金メダルに輝いたことを伝える1989年9月19日の神戸新聞。旧姓・蒲生さんで登場している

 1988年のソウルパラリンピックに水泳で出場した岡崎明美さん(54)=兵庫県神戸市須磨区=は、生まれつき目がほとんど見えない。幼い頃は引っ込み思案だったというが、スポーツに出合い、「生きる喜びを見つけた」。フルマラソンに挑戦し、水泳のアジア大会では金メダル四つを獲得した。3人の子どもを育てた母でもある。このほど三田西陵高校(同県三田市ゆりのき台3)で講演した。(まとめ・土井秀人)

 私は生まれつき目に障害があって、視力がほとんどない。現在は、右目はぼんやり明るい暗い、色が分かる程度。左目は全く見えず、人工的に作られた義眼をはめている。

 中学に入って、部活で水泳を始めた。水泳はコースロープがあれば、1人でも体を思い切り動かすことができる。高校では、水泳以外のいろんなスポーツにチャレンジした。体力もつき、仲間も増えた。

■陸上、水泳、卓球、バレーボールと幅広く挑戦し、数々の大会で優勝。富士山に登頂し、六甲全山縦走も果たした。

 「なぜ私は障害者として生まれてこなければならなかったか」「私だって思いっきり走り回りたい」「きれいな星空を見てみたい」…。もやもやした気持ちが、何となく消えていくのを感じた。目が見えなくても、できることがたくさんある。少し工夫すれば、健常者と共に楽しむことができると思った。スポーツをすることで、障害に負けない体力と根性を身に付けた。

■20歳でフルマラソンへ挑戦。17歳の妹が伴走を務めた。

 ホノルル・マラソンは時間制限なくゴールできると聞き、妹に伴走を頼み、家族でホノルルに行くことになった。

 初めての飛行機に、初めてのマラソン。思ってもみない土砂降りの雨の中、足の痛みに苦しめられながらも、声援に励まされ、5時間44分で完走した。

 就職して社会に出た後も、水泳は続けた。88年のソウルパラリンピックには水泳で出場。初めての国際大会で、「ジャパン」と紹介されると緊張がピークに達した。決勝にぎりぎり残ったという結果だったが、いい思い出。89年の秋、神戸で行われたアジア大会(フェスピック神戸大会)では、金メダルを四つもらえた。

 

■96年8月に出産。男の子と女の子の双子だった。

 産声に、合唱して泣く赤ちゃんたちに、感謝とうれしさで涙が止まらなかった。でも、残念ながら子どもたちの顔が見えない。どんな顔をしているのだろう。元気なのか。ちょっと、いや、だいぶん悲しくなったが、そうも言っていられない。24時間年中無休の育児がスタートした。

 すぐに母乳が足りなくなり、粉ミルクを足すことに。ほ乳瓶に粉ミルクをスプーンで量って入れることはできるが、お湯の量を目盛りに合わせることが難しく、計量カップを使って量った。

■双子の育児。離乳食を食べさせることにも苦労した。

 作った物をいざ食べさせようとするが、スプーンの上のご飯を、赤ちゃんの口に持っていくことが難しい。1人なら左手で赤ちゃんの口を確かめながら、右手のスプーンで食べさせることもできるが、2人いっぺんならそうもいかない。

 子どもは早く食べたいと泣き、私も焦った。そのうち、スプーンを口に近づけると、お口がスプーンの上のご飯を迎えに来て、食べてくれるようになった。何とか離乳食をクリアした。

■お散歩や絵本…。子どもたちはどんどん成長していく。

 離乳食の次はお散歩。1人は右へ、もう1人は左へと行くので、ベストにひもの付いたのを着せたり、靴に鈴を付けたり。妹たちに助けてもらいながら外遊びをさせた。

 絵本の読み聞かせも大変。本屋さんに行っても、点字が付いた本がほとんど売っていない。そこで、高校生のボランティアに点字の絵本をいただいた。特にアンパンマンの本は、子どもたちがとても喜び、ぼろぼろになるくらい読んだ。

 子どもが興味がある本が買えないことはちょっと残念。もっともっと点字の本が増えてほしいと思う。双子が2歳の時には、3人目が生まれた。

■義眼を作ったとき、子どもたちに尋ねられた。「ママ、目きれいになったら車運転できる? 何でも本読める?」

 とても困った。どうしよう、どう答えよう。ママ、目がきれいになったけど、車運転できないし、本も点字が付いてないと読めない。赤ちゃんの時の病気で、ママの目はプラスチックでできていて、電気が付いているとか消えているとか、赤色とか青色とかは分からないの、と答えた。

 「そうか」と言ったきり、その後、子どもたちはそのことに触れなくなった。親の障害を自然に受け止め、「ママ、靴下の色が違うで」などを教えてくれる。

 料理は嫌いではないけど、弁当作りは慣れるまで、とてもプレッシャーだった。弁当箱のふたを開けた時、子どもたちはどう思うだろう。友達と比べて色合いや詰め方などが気になるのではと心配だったが、「食べられたらええねん。大丈夫、大丈夫」と言われてほっとしたことも、懐かしい思い出。

■子どもたち3人は社会人となり独立。岡崎さんは現在、神戸市視覚障害者福祉協会の副会長を務める。

 振り返れば、私の生きてきた54年というのは、つらいことも苦しいこともたくさんあったが、それ以上に素晴らしい経験を人一倍やってきた。恵まれた環境にあったことを本当に感謝している。

 私は自分のために体を鍛え、何事にも積極的にチャレンジしていると同時に、多くの障害の持つ人に生きる勇気を持ってもらいたい。そして健常者の人たちには、たとえ障害があっても同じ仲間、一人の人間として見てほしい。まだまだいろんなことにチャレンジしていきたい。

     ◆

■「フェスピック神戸大会」水泳で4種目の「金」

1989年に開かれた「フェスピック神戸大会」は障害者スポーツの一大祭典で、41カ国・地域から約1600人の選手・役員が参加。期間中は延べ60万人の観客が詰めかけた。岡崎明美さん(54)はこの大会で、水泳4種目の金メダルに輝いた。

 フェスピック(極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会)はアジアパラ大会の前身で、75年から2006年まで9大会が開かれた。神戸大会には皇太子時代の天皇陛下が訪れ、車いすマラソンやバスケットボールを観戦された。

 神戸新聞も大々的に報じており、開幕した9月16日は1面のトップ記事で紹介。開会式では、当時22歳だった岡崎さん(旧姓・蒲生さん)らが選手を代表し、「体をつくり、心をつくり、友をつくり、生きる喜びの輪をさらに広げ、正々堂々、力一杯競技する」と力強く宣誓した。

 岡崎さんは、100メートルバタフライ▽100メートル自由形▽100メートル平泳ぎ▽200メートル個人メドレー-の4種目で金メダルを獲得。紙面で岡崎さんはとびきりの笑顔を見せ、「一つ目のメダルが1番『重い』メダル。最も苦しかった二つ目は『うれしい』メダル。最後の一つは『ほっとした』メダルです」と喜んでいた。(土井秀人)

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