兵庫県警は阪神・淡路大震災の被災地で活動した署員や東日本大震災の被災地へ派遣された経験者ら有志を「語り部」として登録している。三田署の藤原克也副署長(58)もその1人。28年前のあの日は須磨署(神戸市須磨区)で当直勤務中だった。今も残る後悔や警察官として果たすべき責任を、後輩たちに伝えている。
当時30歳。巡査部長として同署の警備課に所属していた。午前5時46分、仮眠室で飛び起きた。ごりごりとコンクリートのこすれ合う音。四つんばいの状態から立ち上がれなかった。揺れが収まり1階へ下りると、倒れた机やロッカーが散乱していた。
外はやけに静かだった。人影もない。夜明け前で停電もしており、被害状況が分からなかった。同僚たちに非常招集をかけた。須磨区北部の宿舎にいた同僚からは被害が少ないと聞き、局所的な地震だったのかと思った。
数十分後から、一気に避難者が署に詰めかけた。通報もやまない。しばらくして男女が10歳ぐらいの男の子を抱いて来た。「息子の様子がおかしいんです」。パジャマ姿で寝ているようにも見えたが、ひとまず病院へ向かうためパトカーに乗せた。助手席で男の子を抱いて気づいた。「ああ、もう」。硬直が始まっていた。
医者に見せるやいなや「あかん」の一言。静かだった両親のおえつが聞こえた。あっち、と指示された部屋に男の子を運ぶと、すでに何人かの遺体が並んでいた。被害の大きさに気が付いた。
病院から帰る途中も助けを求められた。ゆがんだ扉を蹴破って閉じ込められた人を外へ出した。須磨区千歳地区あたりでは、崩れた屋根の下敷きになり、足首を挟まれたままの高齢男性がいた。「痛い痛い」。しかしスコップ1本積んでおらず、男性の手を引っぱることしかできない。たまたま大工道具を持った男性が通りかかった。のこぎりを手に屋根の下に潜ると、すぐに足を押さえていた柱を切り取り、助け出してくれた。同地区は住宅の9割が倒壊・焼失した。
最初の3日間は、3人一組で救出活動を続けた。レスキュー隊などが加わると、遺体の搬送役を担った。女性に覆いかぶさるようにして男性が倒れていた。2人とも亡くなっていた。寒さと重さで手がちぎれそうだったが、目の前の光景が弱音をかき消した。後に、男女は婚約中だったと知った。
4日目以降は署長室に立ち上げた警備本部で通報、建物の損壊状況、避難所の情報をまとめた。自宅に帰ったのは約1週間後。疲れたと感じる暇もなかった。
あれから28年。救助活動した署員らの経験を基に、災害用救助工具セットやエンジンカッターなどが順次各署に配備された。自身は警備部門に長く身を置き、署では部下たちと災害対応訓練も実施してきた。
後輩の多くが震災を知らない世代となったが、「そもそも今後起こる災害は私たちも初めて」と自身に言い聞かせる。
資機材は時代によって変わり、絶えずシミュレーションが必要。経験の有無にかかわらず、想定外が起きた時、工具一つ使えるだけで違う対応がとれる。伝えたいのは心構え。あの日できなかったことを教訓に「備え」の意味を考えている。
【特集ページ】阪神・淡路大震災

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