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伊藤康喜さん。2022年3月から神戸工場長となり、三田市に単身赴任している=神戸市北区赤松台2
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伊藤康喜さん。2022年3月から神戸工場長となり、三田市に単身赴任している=神戸市北区赤松台2
地震で倒壊したキリンビール仙台工場のタンク。屋上には大勢の従業員らが避難した=2011年3月11日午後3時36分
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地震で倒壊したキリンビール仙台工場のタンク。屋上には大勢の従業員らが避難した=2011年3月11日午後3時36分
回収した空き瓶やケースが積まれた置き場(キリンビール提供)
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回収した空き瓶やケースが積まれた置き場(キリンビール提供)
神戸新聞NEXT
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■「設備屋」の専門力、全て注ぐ

 「設備屋」として行くべきだと思った。キリンビール神戸工場長の伊藤康喜さん(54)は、東日本大震災で巨大タンクが倒れるなど甚大な被害を受けた仙台工場(仙台市)の復旧工事を指揮した。地域全体が壊滅的な打撃を受けて撤退する企業が相次ぐ中、キリンビールは早々に復旧を宣言した。かかった費用は総額約60億円。プラントエンジニアとしての経験をすべて注ぎ、6カ月後の操業再開にこぎ着けた。

 統括工事責任者、いわば「現場隊長」として震災2カ月後の5月11日に赴任しましたが、電気も水もガスもない状況でした。高さ10メートルの貯蔵タンク4基が倒れ、津波で電気や排水設備も損壊。建物や道路など全てに被害があり、大量のがれきが流れ込んでいる。1700万本もの缶や瓶、パレットが散乱し、場外にまで流れ出ていました。

 まずは全国から中古でも何でもいいから発電機を100台集めました。それでようやくパソコンでメールができ、工事計画が作れるようになった。

 1日に3回も4回も余震があり、作業は危険を伴いました。屋外にいて上から何かが落ちてきたら終わりだし、高所作業中に強い揺れがあれば転落してしまう。

 タンクの撤去って、ガスバーナーで切断するところから始めるんですよ。燃やしながら切るんですが、もし火災を起こしてしまっても、被災しているから十分な水がない。非常に厳しい環境での復旧作業で、常に「人が死ぬんじゃないか」という不安がありました。

 赴任1カ月前の4月7日、仙台市で記者会見した松沢幸一社長(当時)は「ビール造りの心臓部である醸造設備に大きな被害はなかった」とし、9月にも製造を再開する方針を示した。

 うれしかったですね。当初は工場が立ち上がると思っていませんでしたから。

 地震が起きた時、私はキリンエンジニアリングに出向していて、横浜事業部長でした。横浜工場にある建物の新設工事を担い、3月11日はちょうど竣工(しゅんこう)式の日。そこで仙台の被害を知ったんです。

 仙台工場で倒壊した縦型の貯蔵タンクは1990年代ごろから導入され始めたもので、会社としても解体や撤去の経験が少なかった。たまたま私は横浜工場でその経験があり、タイミング的にも行くのは自分だろうと感じていました。

 ゴールデンウイーク前、本社の幹部とキリンエンジニアリングの社長に居酒屋の個室に呼ばれ、仙台行きが伝えられました。

 工場の復旧は全社を挙げての作業ですが、一つの企業の課題ではなく、日本の社会課題だと思っていました。まちを復興させなければならない。設備屋の「専門力」を生かして地域貢献ができる。行くべきだと思いました。

 当初、再建には約50億円が見込まれていた。赴任後に本格的な復旧が始まったが、再開予定までわずか4カ月しかなかった。

 50億円規模の工事って、ちょっとした食品工場が建てられるんです。1日100人の職人が集まって2年ほどかかる。それを9月に完了するには、相当な数の職人さんを入れる必要がある。肌感覚で分かります。けれど当時職人さんは引っ張りだこで、なかなか集まらない。早く復旧しなきゃいけないのに、人がいない。焦るわけですよ、こっちも。

 最初に集まったのは50人ほどでした。それもプラントを専門にやってきた人ではなく、町の電気工事屋さんや配管職人さん。不慣れな業務や工程の中、事故や熱中症を発生させたこともあり、申し訳なかった。頭を切るけがをした職人さんの奥さまに謝ろうとしたら、先に「皆さんが一生懸命復旧工事をしている中、事故を起こしてしまい本当に申し訳ありませんでした」と言われた。これはつらかったですね。

 倒れたタンクを撤去するには、200トンと400トンのクレーンで両端をつるので、すごく危険なんですよ。あうんの呼吸が必要なんですが、初めて顔を合わせる職人でやるしかなかった。

 流出した缶ビールや瓶、たる、がれきの撤去は人海戦術しかなかった。協力企業の従業員も一緒になって回収に汗を流した。

 暑い中、集めて廃棄する。全て人の手です。排水処理施設が動いていないので、いったんビールを地下のマンホールにため、バキューム車を手配して運んでもらった。1700万本が流出しているので、本当に大変だったと思います。臭いも想像できないくらいすごいんですよ。

 工事会社の人と仮設プレハブの部屋に集まって会議をするんですが、服にハエが止まって体中真っ黒になるんです。敷地内でビールがたまっている場所も、真っ黒になっていた。

 キリンビールの各工場などからも応援が来て、復旧に向けた私たちエンジニアの混成部隊は48人となりました。同じ寮で同じ飯を食べてね。職人さんも60人、70人と増え、最後は200人ほど集まった。そうしているうちに、当初の不安は、達成するんだという覚悟に変わっていったんです。

 どうやって工場をもう一度立ち上げるか。みんなが一緒になって同じ目標に向かっていました。そこには会社の壁も、上下関係もなかった。

 初夏のころ東京に帰省し、友人の外資系証券会社幹部と会った。だが、ビアガーデンでかけられた言葉に耳を疑った。

 彼は言ったんです。「東北地方は日本のGDP(国内総生産)の数%しかないのに、なぜ仙台工場を復旧する必要があるの? 閉鎖すべきだよ」って。

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