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尼崎JR脱線事故で重傷を負った林浩輝さん。「過去を悔やんでも未来は明るくならない」と仕事に励む=大阪市西淀川区御幣島3(撮影・風斗雅博)
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尼崎JR脱線事故で重傷を負った林浩輝さん。「過去を悔やんでも未来は明るくならない」と仕事に励む=大阪市西淀川区御幣島3(撮影・風斗雅博)

 2005年に発生した尼崎JR脱線事故で1両目に乗車し、両脚を切断する重傷を負った林浩輝さん(34)=大阪市西淀川区=は15年の間に社会人となり、ハンディを乗り越えて社内で多数の部下を持つ中堅社員へと成長した。念願だった仕事に打ち込む毎日に「挫折し、苦労した15年間の全てが自分の大きな財産」と穏やかな表情で語る。(名倉あかり)

 事故当時は同志社大学2年生になったばかり。大学の最寄り駅で降りた時に改札に近いから、といつものように1両目に乗車した。手すりを持ち、何げなく窓の外を眺めていると、衝撃と同時に足が地面から離れた。車両が斜めに浮き、マンションに突っ込んだ。「一瞬の出来事だったが、コマ送りで覚えている」

 記憶に残るのは、建物のシステム異常を知らせるサイレンの音、充満するガソリンのにおい、10人ぐらいのうめき声-。車両に挟まれた下半身の感覚はなくなり、胸にはガラスが刺さっていたが、約22時間後に救出されるまで決して意識を失わなかった。

 救出から約2週間眠り続け、目覚めた時には両脚が切断されていた。「状況は理解できたが、心では受け入れられなかった」。治療のため大学を1年休学し、復学して卒業した。

 幼い頃から夜遅く帰宅し、出張や単身赴任をこなす父を見て育った。「自分もあんな世界で勝負がしたい」。物心がついた時から父のような「バリバリ働く」サラリーマンに憧れ、その思いは事故に遭っても揺らぐことはなかった。

 就職活動では、周りの友人に「負けたくない」と総合職にこだわり、障害者枠の採用には見向きもしなかった。そのことを「本当の意味で自分の障害と向き合えていなかった」と振り返りつつ「でも、その思いが挑戦する原動力だった」とも言う。

 一般学生と同じ採用試験を受けて内定をつかんだ広告制作会社で働き始めた。しかしそこで、壁にぶつかる。外回りの営業や出先での昼食など、エレベーターがない場所では先輩に車いすを担いでもらわなければならない。12時間を超える就業時間も覚悟していた以上に体にこたえた。

 障害を負った自分に何ができて、何ができないのか-。数年の自問自答を経て、現在勤める日本生命の特例子会社に転職した。ハード、ソフト面ともに働きやすい環境といい「今の会社に就職してやっと心身が落ち着いた」とほほ笑む。

 「事故に遭っていなければ」とは考えない。JRに対してぶつけたい気持ちがあったのも直後だけだった。それより、事故に巻き込まれ「生きること」に一層貪欲になった。

 「とにかく両脚を失った自分の人生と精いっぱい向き合っていくだけ」

【記事特集リンク】尼崎JR脱線事故

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