神戸・ポートアイランドのスーパーコンピューター「富岳(ふがく)」の開発を主導した理化学研究所計算科学研究センター長、松岡聡さん(58)に、もう一つ開発したモノがある。家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」で大ヒットしたソフト「ピンボール」だ。40年近く前にゲームプログラマーとしてハードウエアと向き合った経験は後のスパコン開発につながっている。(霍見真一郎)
松岡さんは東京出身で、1963年生まれ。科学館のような施設に小学2年生から通い始め、電気工作などに没頭した。
「作るのが面白かった。ラジオを鳴らしたり回路の働きを学んだり。科学少年でしたね」
ちょうど米国のアポロ宇宙船が月面着陸した頃で皆が宇宙飛行士に憧れたが、松岡さんはロケットを作る方に憧れた。
家庭の都合で小学4年から米国へ渡り、中学2年で帰国した際、街角で見たコンピューターに驚いた。「アキバ(秋葉原)に、むき出しの電卓みたいな基板がぶら下がっていた」
当時コンピューターは非常に高価で、庶民に手が届く物ではなかった。松岡さんは本や雑誌を買ってプログラミングを勉強し、ショールームのデモ機で実践して知識を深めていった。
魅力は電卓と全く違う画面サイズ。「月面着陸するときに管制官が見ていた画面みたいだと思った」と当時の興奮を振り返る。中学3年で、宇宙戦艦ヤマトをモチーフにしたゲームを初めてプログラミングした。
プログラマーとしての転機は、高校に進学し、通学電車の乗り換えで東京・池袋の百貨店にあったパソコンコーナーに通い始めたこと。そこに集う同世代の面々には、後に任天堂の社長になり55歳で早世した岩田聡さんもいた。そのメンバー中心にソフトウエア開発会社が生まれ、松岡さんもアルバイトとして働いた。
1983年、ファミコンが発売された。当時の日本でほとんど使われていなかったタイプの中央演算処理装置(CPU)を採用し、ゲームのプログラミングに苦戦していた。
その技術があった松岡さんと岩田さんはピンボールの開発依頼を受けた。しかし、すぐ壁にぶつかった。
ボールの反射や摩擦、動くフリッパーとの衝突判定…。物理現象をリアルタイムで再現するには、ファミコンでは計算速度が足りない。考えた末、松岡さんは曲面を四角いブロックの集まりと考えることをひらめいた。
ピンボールは84年に発売され、100万本以上売れた。当時東大生だった松岡さんは、ゲームプログラマーとして「ハードウエアの能力を生かし切るようなソフトウエアを作ること」を学んだ。
その後、研究者の道を進んだ松岡さんは、情報学としての理論とソフトウエアの使いやすさを追究し、東京工業大でスパコンを開発。主要4指標で3期連続世界一を達成した「富岳」も使いやすさを常に意識した。
ファミコンゲームの開発経験は世界最先端のハードウエア開発につながった。
「いまスパコンで行われている取り組みは、そのうちゲームにおりてくる」と松岡さん。「何か想像を超えるようなことが起きるかもしれない」とさらなる進展に期待する。