丹波

  • 印刷
「そりや竹馬を作ってくれた優しい兄を今でも思い出します」と話す園田美子さん=丹波篠山市
拡大
「そりや竹馬を作ってくれた優しい兄を今でも思い出します」と話す園田美子さん=丹波篠山市
憲二さんからの手紙。今も大切に園田さんが保管している=丹波篠山市
拡大
憲二さんからの手紙。今も大切に園田さんが保管している=丹波篠山市
戦死した兄・畑憲二さん
拡大
戦死した兄・畑憲二さん

 太平洋戦争当時の日常を描いたアニメ映画「この世界の片隅に」。ヒロイン・すずにちなみ、同じように戦時下を生きた女性のエピソードを公募する企画「#あちこちのすずさん」に兵庫県・丹波からも応募があった。小学時代の思い出を手紙につづったのは、園田美子(よしこ)さん(84)=丹波篠山市。終戦当時、8歳。国民学校の3年生だった。丹波篠山育ちで、空襲や機銃掃射などの経験はないが、軍国主義に染まった幼少期を過ごし、1944(昭和19)年7月、長兄を戦争で失った。「戦時中、国民は目隠しされ、私も洗脳されていた。自分で考え、ものごとの本質を見抜く目を持たないといけない」と訴える。(堀井正純、綱嶋葉名)

 現在の同市畑宮出身。7人きょうだいの末っ子で、父は当時の畑村の村長。母は「国防婦人会」の会長を務めていた。兄3人と姉3人。「甘やかされて育った」と懐かしむ。

 戦死した長兄の畑憲二さんとは一回り以上も年が離れていた。自宅の敷地内にある池にたらいを浮かべ、舟代わりにして遊んでもらったりした。「体はそれほど丈夫ではなく、本好きで優しかった」。

 「けんじ兄さん」と呼んだ兄に、自身が1年生のとき、召集令状が届いた。「近所の人にはおめでとうと言われた。お国のため。そういう時代だった」。出征時、地元の神社に大勢が集まって軍歌を歌い、日の丸を振って見送った。村長の父が「天皇陛下万歳!」と音頭をとった。

 海軍の部隊所属の憲二さんは、しばらくは三重県や兵庫県姫路の内地に配置されたが、最後は南方の戦地へ。軍艦とともに海に沈んだ。家族で昼食をとっているとき、父から知らされた。みんなで大泣きした。「建前ではもちろん名誉の戦死。でも…」と当時を振り返り、言葉を詰まらせる。

 「母はいつも『今は非常時だ』と口にしていたけれど、物心がついたころには戦争が始まっていた。幼い私には特別なことでなく、母の言葉はなかなか理解できなかった」と振り返る。

 日常は戦時色に染まっていた。家には英国のチャーチル首相らの似顔絵が貼られ、「米英鬼畜」と記されていた。大戦末期には、村人は本土決戦に備え、竹やりの訓練に励んでいた。尼崎などから疎開してきた児童らが寺や公民館に寝泊り。自宅では、大阪から疎開した親子らが暮らしていた。西宮や神戸が空襲を受けていたせいだろう、夜に南の空が赤く染まっていたことがあった。

 学校では、イナゴを捕まえ食料にし、乾パン作りのためドングリを拾った。履いていく草履も自分で編んだ。鼻緒に着物の端切れを巻き付けるのが、戦時下のささやかな「おしゃれ」だった。

 金属供出では、寺の鐘や民家の鍋などだけでなく、農家は大事な農機具を解体し、ねじまで差し出した。「うちはかもいに掛けてあったやりや刀も供出した」

 けれど、そうした日々を「苦労とは思わなかった。今思えば洗脳されていた。負け戦なのに、大本営発表を信じていた」と省みる。そして、「周囲に流されやすい日本人の国民性は今もあまり変わっていないのでは?」と心配する。

 「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」。ワイツゼッカー・元ドイツ大統領の演説の言葉を、胸に刻んでいる。「日本人も過去の歴史から目をそむけていはいけない。沖縄の基地問題など、戦争は決して終わってはいない」と訴える。

 夏になると、出征した憲二さんから、家族宛てに送られてきた手紙やはがきを読み返す。検閲によって、一部が墨で塗りつぶされたものもある。「美子は元気ですか」「美子は良い子しているか」。兄の文字が、涙でにじんで見えなくなる。

戦後76年丹波
丹波の最新
もっと見る
 

天気(10月29日)

  • 20℃
  • 13℃
  • 10%

  • 18℃
  • 12℃
  • 20%

  • 21℃
  • 12℃
  • 0%

  • 20℃
  • 11℃
  • 10%

お知らせ