まもなく夜が明ける。布団に横になった伊丹市の女性会社員(21)は、ビクビクしながら目を閉じた。
「今日も、事故の夢を見るんじゃないか」
案の定だった。電車と電車が正面衝突。乗っていた自分は車外に放り出された。「ギャー」「助けて」。悲鳴がはっきりと耳の中で響いた。
恐怖のあまり跳び起きる。顔や手は、びっしょりとぬれていた。睡眠時間は三時間。毎日がこの繰り返し。寝るのがすっかり怖くなった。
夢の内容をノートにつづる。「電車がまっぷたつに折れる」「電車が急に止まり体が宙に浮く」-。リアルな夢のシーンがページを埋める。
女性がジロッとにらみつけて言った。「許さないからね」。亡くなった乗客が、生き残った私を責めているのだろうか。目が覚めると、泣きじゃくっていた。
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四月二十五日は、三両目で立っていた。衝撃で体が背中の方に引っ張られ、気付いたときには人の中に埋もれていた。
血がポタポタと顔に落ちてくる。自分の上にも下にも十人ぐらいいた。息ができない。苦しい。空気を求め、思わず顔を左右に動かした。
助け出され、車内を振り返った。女性がぐったりしているのが見えた。
「私が顔を動かしたために、下に圧力がかかったのかもしれない」
百七人もの人が亡くなった。重傷を負った人も多い。自分は軽いけがだった。「軽傷で生き残って、申し訳ない」「私が犠牲になれば、だれかが助かったかも」。罪悪感にさいなまれる日々が始まった。
食事は一日一食になった。友人には「やつれたね」と言われる。吐き気がし、週一回しか出社できなくなった。電車には、全く乗れない。走る車両を見て全身に鳥肌が立ち、何が何だか分からなくなって、その場に座り込んだこともあった。
自宅に閉じこもり、携帯電話に手を伸ばす。日記代わりにメールを打つ。「亡くなった人ごめんなさい」「なんで生き残ったんだろう」。誰に送るわけでもないメールが、どんどん増えていく。
洋服を扱うショップ兼カフェを開く「夢」があった。今は、「どう生きていったらいいのか分からなくなった。いつまでこんな思いが続くの」。
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六月末、心療内科を訪れた。「だれにも話すことができなくて、ここにきました」と声を絞り出した。「がまんしてたのね。つらいね」。その言葉に、涙があふれた。
七月中旬には、脱線事故の被害者の集まりに足を運んだ。一人ずつ悩みを打ち明け、耳を傾ける。「会社に行けない」「電車に乗れない」。同じ悩みを持つ人たちが、そこにいた。
事務局のメンバーに「ここでは泣いて、しゃべっていいのよ」と声を掛けられた。人前もはばからずに声を上げて泣いた。胸が少し軽くなった。
まだ、前向きな気持ちにはなれない。だけど、今は「私だけじゃない。分かってくれる人がいる」。その思いに支えられ、今日を生きる。
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五百四十九人に上る尼崎JR脱線事故の負傷者。心と体に受けた深い傷は、癒やされぬまま三カ月が過ぎた。「元の日常を返して」と願いながら、苦しい時を歩む。
2005/7/26