都市計画コンサルタントの浅野弥三一(やさかず)さん(68)の事務所は尼崎にある。3月26日、ここに多くの報道陣が詰めかけた。
浅野さんは、尼崎JR脱線事故の遺族らが集まる「4・25ネットワーク」の中心メンバーの一人だ。この日、神戸第1検察審査会が、JR西日本の井手正敬元会長(75)ら歴代トップ3人について、起訴議決を出した。
検察の不起訴処分を覆し、弁護士による起訴が現実のものとなった。
「歴史的な議決だ」。そう評価した浅野さんは落ち着いた口調で続けた。
「舞台は整った」
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2005年4月25日。朝、「行ってきまーす」と言って家を出た妻の陽子さん=当時(62)=は、そのまま帰らぬ人となった。
結婚して38年、夫妻は家で職場で、いつも一緒だった。夫にとって妻はかけがえのない人だった。人前に出るタイプではないが、明るく陽気で、いつの間にか人の輪の中に入っている。その姿にいつも感心させられた。
あの朝の出来事は、今もよく覚えている。
陽子さんは午前8時半すぎ、千葉の親類を見舞うため、次女の奈穂さんと一緒に宝塚の自宅を出る。
途中で、浅野さんの妹の阪本ちづ子さん=当時(55)=と合流し、3人で新幹線に乗って、千葉に向かう予定だった。
「10時には新大阪駅に着きたい」と言う妻に、台所から浅野さんが「もう行くのか。ちょっと早すぎるんじゃないのか」と声を掛ける。
妻と娘を見送った後、浅野さんは車で尼崎の事務所に向かった。ラジオのニュースが伝える。「尼崎でJRの脱線事故が起きました」。もしやと思いながら車を走らせる。
事務所に着き、妻の携帯電話を何度も鳴らすが、つながらない。午前10時半ごろ、テレビに現場の映像が映し出される。
「これは…」。一目で言葉を失った。
妻たちに連絡が取れないまま、テレビに見入る。時間を追って犠牲者の数が増えていく。10人、30人…。いったい何人が亡くなったのか。
50人に達したとき、無事を祈る気持ちがぷつんと切れた。
「もうあかん」
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尼崎JR脱線事故で妻と妹を亡くした浅野さんは、都市計画コンサルタントとして、雲仙普賢岳噴火災害や阪神・淡路大震災などの被災地に入り、被災者の支援にかかわってきた。
それが、一転して事故の被害者の立場になる。初めて味わうつらさだった。信じられない、受け入れられない。そして今…。
事故から5年、浅野さんの心の記録をたどりたい。(三島大一郎)
2010/4/9