当時西宮市に住み、大阪の大学に通っていた福田裕子さん(36)=宝塚市=はあの日、最寄りのJR西宮名塩駅ホームで後ろから声を掛けられた。振り返ると、木村仁美さん(36)=同市=が満面の笑みで立っていた。高校時代の同級生。クラスも部活も違うのに、共通の知人から「あんたたち、気が合うと思うよ」と紹介された友人だった。
数カ月ぶりの再会。就職活動で大阪へ面接に行く木村さんと一緒に、川西池田駅で快速電車に乗り換えた。乗ったのは1両目の後方。向かい合って立ち、話をしていた。
伊丹駅を過ぎた頃から、車窓から流れる景色はどんどん速くなっていった。窓がガタガタと揺れ始める。とっさに互いの手を取り合った。だが、すぐに強い遠心力で引き離され、福田さんは扉付近にたたきつけられた。前方の車体がねじれていくにつれ、窓ガラスが前から順番に割れていく。「ここまで来る、やばい」と思った瞬間、すさまじい衝撃音。気を失った。
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福田さんは事故の約1時間半後に救出され、鎖骨などを折る重傷。木村さんは自力で車両から抜け出したものの、左脚挫滅という大けがを負った。
事故の話は友人や家族にさえしづらかった。107人が死亡した事故の「被害者」という、あまりに重い事実が周囲の気遣いや配慮を生む。態度の変化を感じるのが何よりつらかった。
だが「被害者」ではなく、同じ体験をした友達同士なら、どんな話も気兼ねなくできた。木村さんは「1人ならきっと処理しきれなかった。話すことで整理できた」と振り返る。
木村さんが被害者同士をつなぐメールマガジンを続けるのも、同じ理由からだ。タイトルは「寄りかかってもいいんだよ」という意味の「LEAN on ME(リーン・オン・ミー)」。05年12月から始め、月に1、2回送信。今年4月で244号を数える。
被害者を支援するNPO法人の会合など、事故関連の行事日程を箇条書きにして送る。登録者は延べ約120人。「社会から事故は風化していくけれど、被害者の中ではまだ終わっていない。関わっている人が今もいるということが安心につながれば」と話す。
一方福田さんは11年から毎年、事故の風化・再発防止のために、負傷者とその家族らが配るしおりのイラストを描き続ける。
今年は石積みの塔内から望む真っ青な海に、2頭のクジラが身を寄せ合って泳ぐ姿を描いた。「15年間を振り返ると、これまで積み上げてきた生活があった」。事故に負けたくないと必死で歩んだ日々。傍らには、いつも変わらない友がいた。(前川茂之)
2020/4/23