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兵庫人 第11部 建築のこころ

(1-1)遺産を守る 天守閣支えた匠の技
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「この城とかかわらせてもらって、幸せやったと思います」と語る西村〓一さん=姫路市本町、姫路城(撮影・岡本好太郎)
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「この城とかかわらせてもらって、幸せやったと思います」と語る西村〓一さん=姫路市本町、姫路城(撮影・岡本好太郎)

「この城とかかわらせてもらって、幸せやったと思います」と語る西村〓一さん=姫路市本町、姫路城(撮影・岡本好太郎)

「この城とかかわらせてもらって、幸せやったと思います」と語る西村〓一さん=姫路市本町、姫路城(撮影・岡本好太郎)

■大修理、永遠への挑戦

 今年は、国宝・姫路城が法隆寺とともに、日本で初めて世界文化遺産に登録されて丸十五年となる。

 木造建築では屈指の規模を誇る。しかし、道のりは決して平坦(へいたん)なものではなかった。幾多の苦難で荒廃した城を救ったのは、太平洋戦争を挟んで取り組まれた昭和の修復工事。特に大天守など二十二棟を全面解体した「昭和の大修理」(一九五六‐六四年)は未曾有の難工事だった。

 「池田輝政に人生をささげたようなもんや。責任を取ってもらわんとな」

 元文部技官の西村〓一(よしかず)(76)は、大天守へと続く石段を上りながら、豪快に笑う。

 二十代半ばで姫路に来た。「昭和の大修理」に携わった後も住みつき、半世紀にわたり城を見守ってきた。城とは「掛け替えのないもの」。いとおしさすら、感じる。

 五七年一月。大天守は高さ約五十七メートルの巨大な足場「素屋根」に覆われた。三の丸から大天守へ、長さ約二百メートル、ヒノキの丸太を組んだ登り桟橋が架けられた。

 西村は同年六月、現場に入った。既に解体作業は始まっていた。任されたのは東小天守と二つの櫓(やぐら)。助手と二人で部材の点検や寸法の測定に当たったが、解体現場は戦場さながら。土ぼこりが強風に舞い、職人の怒声が飛び交う中、部材の寸法を一つ一つ測り、図面を作っていった。

 姫路城は、天然の地形と樹林を最大限に生かして建てられた。「近世城郭のはしりで、見本となる城もない中、職人の仕事ぶりは丁寧だった。突貫工事で、よくあれだけの建物を築けたものだ」

 三重県の工業高校建築科を卒業後、国宝・松本城(長野県)の解体修理をはじめ、千葉や鳥取など文化財の現場を渡り歩いてきた。

 二十五歳のとき、法隆寺に赴任する話があった。念願だった古社寺の修復。心が躍った。だが、間もなく姫路に変更となる。当時、「城の修復は土木屋の仕事」と、関心は高くなかった。「城郭建築は『歴史の浅いもの』。天から地へ落ちた気分だった」

 だが、姫路城と出合い、考えは一変する。二回りも年上の棟梁(とうりょう)、和田通夫(故人)や工事主任で文部技官の加藤得二(故人)と寝食を共にした。石垣上の限られた場所に建物を収める、匠(たくみ)の技に息をのんだ。「法隆寺よりもすごいやないか」

 あれから半世紀。城の保存に心を砕きつつ、技術屋として、城郭建築に迫り続けてきた。構造上の特徴など、未知の領域はなお多い。

 「城は生きている」。西村の持論である。築城から四百年。守り、遺(のこ)されてきたのには理由がある。「各部材は時間とともに伸縮し、互いに大きな力を支え合ってきた」。だが、それも永遠ではない。

 二〇〇九年度から「平成の大修理」が始まる。大天守の漆喰(しっくい)壁塗り替えや耐震補強を施す大がかりな工事だ。

 「昭和の大修理」を知る数少ない一人となった西村は、警鐘を鳴らす。

 「修理ほど難しいものはない。建物の本質を見誤ると、取り返しがつかなくなる。城を守るのは、最後は一人一人の愛情と情熱です」(敬称略)

(注)〓は「土」の下が「口」

2008/2/3
 

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