新兵庫人 第26部 再生を信じて
号令とともに、大軍が走り始めたかのようだった。
東日本大震災が起きた3月から5週間、延べ400人近い若者が宮城県へと向かった。目的は被災者への徹底的な聞き取り調査。県内の避難所計443カ所を2巡した。
仕掛けたのは、内閣官房震災ボランティア連携室企画官の田村太郎(40)=大阪府茨木市。人脈をフルに活用し、学生やNPO関係者を集めた。「避難所で人を死なせたくなかった」
「発達障害の子どもがいて避難所に居づらい」「人工肛門の装具が足りない」など、現地の切実な声が集まった。問題や要望に対応できるボランティア団体などへつないだ。
兵庫県伊丹市出身。地元の高校を卒業後、世界を放浪した。阪神・淡路大震災当時は、大阪市内の在日フィリピン人向けのビデオ店で働き、被災地の外国人の不安な気持ちにも触れた。その経験を基に、外国人の悩みに応じる電話相談窓口を設けた。田村のその後の活動の起点となった。同じ年、大阪で発足した多文化共生センターの事務局長になった。2007年からは、多様性に配慮した社会を目指す一般財団法人「ダイバーシティ研究所」(大阪市)の代表を務める。
今回の震災では直後に内閣官房に請われ、発生6日目に宮城県入りした。石巻市では、驚いたことにボランティアにほとんど出会わなかった。「誤算だった」。阪神・淡路などの経験から、人々が無秩序に被災地に入るのを心配していた。しかし予想に反し、自重する人が多かった。
一転、ボランティアの呼び込みに走る。加えて、がれきの中から、いかに雇用を生み出すかにも知恵を絞った。その一つが、社会の課題をビジネス化する「社会起業家」の育成支援。自身が代表を務める京都のNPO法人から、復興の事業化を目指す団体に資金提供することにした。
石巻市のある団体が手を挙げた。子どもの居場所と職を失った母親の仕事を確保したい‐と。田村は面談を重ねた。「それがビジネスになるのか」「どの計画も現状では無理だ」。被災者に厳しい言葉を容赦なく投げ掛けた。
「支援されるだけなら力を失う。いずれは当事者がサポートに回るべきだと思うから」。2年前、8歳だった長男を小児がんで失った。その時、支えられる側になってみて「当事者だからこそ分かることがある」と気付いた。
この団体は支援対象として合格。仮設住宅に母子の居場所をつくり、その場で職業訓練をすることに決めた。
被災地から兵庫を振り返り、田村は呼び掛ける。「神戸・阪神間の人たちは現地で必ず力になる。経験を生かすためにも、遠慮せず行くべきだ」(敬称略)
2011/7/3