終戦の27日前。のどかだった三田は一度きりの空襲に見舞われた。市史によると、米軍機2機の機銃掃射により、三輪国民学校(現在の三輪小)の児童4人と農家の女性1人が犠牲になった。戦後70年の夏。失われつつある戦争の記憶をたどる。(山岸洋介)
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1945年7月19日。午前10時ごろ、晴れ渡る空に警戒警報が鳴り響いた。ラジオは「明石上空に十数機のB29が来襲し、北東に進行中」と伝えていた。
「急いで帰れ」。夏休み直前の三輪国民学校は急に慌ただしくなった。約30分で警報は解除されたが、児童たちは地区ごとに隊列を組んで下校した。
当時5歳で、同じ敷地内の幼稚園に通っていた仲畑直さん(75)=同市桑原=も上級生に囲まれ、十数人で家路を急いだ。
午前11時20分ごろ。国鉄三田駅そばを過ぎ、線路沿いに広がる田んぼの辺りで、いきなり「バリバリバリ」という戦闘機の低音が耳をつんざいた。「隠れぇ!」。覆いかぶさる上級生と一緒に、水路に転がり込んだ。
同じ集団にいた2年生の中嶋宏次さん(78)=同市桑原=は、その場に伏せた。未舗装の道に激しい雨のように銃弾がたたきつけられ、土煙が上がる。死を覚悟し、体が凍りついた。田んぼにも弾が降り注ぎ、バチャバチャと音がした。
どれだけ時間が過ぎたか。水路の仲畑さんが顔を上げると機影は消えていたが、近くに上級生2人が倒れている。1人は兄の恒芳さん=当時(13)=だった。
声を掛けたかどうか、記憶は途切れている。だが兄のうめき声と、弾が貫通した両わきから血が流れ、服を赤く染めていたのは覚えている。兄と頭を撃ち抜かれた上級生は、そこで息絶えた。
桑原の家に着くと、近所に住む伯母が田んぼの草取り中に頭を撃たれ、即死したと聞かされた。母は実の姉と長男を一度に失った。
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三田を襲ったのは、B29の護衛役で「グラマン」と呼ばれた戦闘機とされている。
三田国民学校(現在の三田小)の3年生だった中後茂さん(78)も、校門そばで機銃掃射に遭った。六甲山を越えてきた米軍機は北東に進路を取りながら、三田小の付近から撃ち始め、三輪小や桑原の方角に進んだとみられる。
都市部からの疎開先となり、比較的平穏だった三田がなぜ狙われたのか。三田駅近くには多くの貨物車が停留され、そこに米軍機が乱射していたとの証言が伝わる。駅の隣にあった鉄道機器や自動車部品の工場が標的にされた可能性もある。だが、傷跡は広範囲に及び、市史は「事実上の無差別爆撃」と記す。
中嶋さんは数年後、自宅そばの田んぼで薬きょうを拾った。直径2センチ、長さ10センチ、重さ50グラム。ずしりと不気味な重さが、放たれた銃弾の威力と恐怖を物語る。
2015/8/14