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ノートに図を描きながら朝鮮戦争での掃海作業を説明する嶋田好孝さん=神戸市兵庫区湊町4(撮影・風斗雅博) 神戸新聞NEXT
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ノートに図を描きながら朝鮮戦争での掃海作業を説明する嶋田好孝さん=神戸市兵庫区湊町4(撮影・風斗雅博)

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 北朝鮮の元山沖で激しい戦闘に遭遇した後も、嶋田好孝さん(91)=神戸市兵庫区=ら掃海隊の任務は続いた。1950(昭和25)年10月17日、米軍の上陸を実現させるため、ソ連製の機雷が潜む永興湾に再び突き進む。その中には、日本を出る直前、船上で杯を交わした中谷坂太郎さんもいた。

 「米軍の掃海艇が機雷を浮かせてくれたときとは違って、いよいよ単独での本格的な掃海でした。湾内で米軍とは別の場所へ行ったんです。掃海艇4隻が2隻ずつ一組になって海中にワイヤを張ります。それで係維機雷を引っ掛け、浅瀬に運んで浮かせるんです」

 「私は艦橋の上で監視しとったわけです。機雷が引っ掛かったら、ワイヤに取り付けているブイの動きで分かりますから。特別な緊張感はなかったですが、万一のことがあったら危ないから、乗組員たちは甲板より上に上がってました」

 海上保安庁の「MS14号触雷報告」によると、嶋田さんのMS03と中谷さんのMS14は、それぞれ別の掃海艇とチームを組んでいた。MS03組の左700メートル後方で、MS14組は計1キロメートルのワイヤを引いて航行。永興湾入り口の麗島の前を過ぎたときだった。午後3時21分、嶋田さんはその瞬間を目撃する。

 「感覚では200メートルほどしか離れていませんでした。後ろを見とったら突然、水柱が50メートルくらいバーッと上がったんです。それでまたザーッと海面に落ちてきて。ああ、やられたと思って。ぼうぜんとなりましたよ。すぐ救助だとなりましたが、自分の船のワイヤを切るか外さないと動けないんで、まごまごしてたら米軍の短艇が助けに来たんです」

 MS14は船尾より5、6メートル前方の右舷船底が水面下3、4メートルで触雷。22人が救助されたが、18人が重軽傷、炊事担当の烹炊(ほうすい)員だった中谷さんだけが行方不明となった。中谷さんは、甲板より下の食糧庫に「入庫中ならずやと思考す」とされた。

 「行方不明が1人いると聞いてひょっとしたら、という気はしたんです。ほかの人は甲板より上に上がっているはずですから」

 「そら、ショックでしたよ。背も高いし、いい男でね。出撃前に刺し身を持ってきてくれるくらいの友達だったんですから。かわいそうなことをしたなと。もし、烹炊員じゃなければ助かったんじゃないかと思うんです」

 中谷さんは、2日前に21歳になったばかりだった。(森 信弘)

2016/12/18
 

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