朝鮮戦争で機雷掃海中に亡くなった中谷坂太郎さんは、後に戦没者叙勲を受ける。掃海隊派遣当時の海上保安庁長官で、退官していた大久保武雄氏が、大阪市浪速区の兄藤市さん(89)のもとを訪れて手渡した。隠された死から29年。1979(昭和54)年10月30日のことだ。
「突然、現職の幹部の方と私の自宅にお見えになりましてね。自分の命令で日本の掃海艇を出動させた。公にできず、対応ができなかったので何とか霊を弔いたいということでした。正式に国が殉職、戦死を認めたというニュアンスのことをおっしゃってくれたんです。ああ、やっと弟の戦死を認めてもらった、これで公にできるんだ、とほっとしたというか、解放感がありました」
掃海艇の派遣や殉職は、既に報道や国会で話題となっていたが、国が自ら説明することはなかった。78年、当事者の大久保元長官が回顧録「海鳴りの日々」を出版し、ようやく全容が明らかになった。
「叙勲が出て、弟は自動的に靖国神社に合祀(ごうし)されるだろうと思ってたんです。国の命令のような形で戦闘行為に加わったんですから。でもいつまでたってもされないから、2006年に申請に行ったんです。そしたら死亡証明書はあるか、と聞かれたんですけど何も書類はありません。海保に証明を出してくれ、と頼んでも使えるような書類は出てこなかったんです」
「それで田舎の役場で戸籍謄本を調べたら弟の名前がないんです。死亡届が出たから抹消したんでしょう、と言われて調べてもらったら届けが海保から出てましてね。北緯何度、東経何度って死亡場所も書いてある。これだ、と思いましたね」
その年、藤市さんは正式に合祀を申し込んだが、対象は太平洋戦争までだとして断られた。あきらめ切れず、09年に再度申請したが結果は同じだった。息子には、いずれ3回目の申請をするよう頼んでいる。
坂太郎さんは、平和憲法の下で「存在してはならない戦死者」だった。だが今、安全保障関連法の成立で、自衛官のリスクは確実に高まっている。同神社は戦死者が出ても合祀はしないとの見解を示しているが、代わりの国立追悼施設があるわけでもない。戦死者を国民がどう受け入れるのか。その問いは置き去りにされたままだ。
「私は、国に殉ずるという気持ちで掃海艇に乗った弟の心情を酌んでやりたいんです。今は平和ですけど、いつか戦争に直面して弟のような犠牲者も出るでしょう。無念の死を好むわけじゃないですけど、日本人の戦死は避けて通れないと思いますよ」(森 信弘)
2016/12/22