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岩岡尋常高等小学校の「修身」の授業風景=1932年ごろ(神戸市西区の常光寺提供)
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岩岡尋常高等小学校の「修身」の授業風景=1932年ごろ(神戸市西区の常光寺提供)

岩岡尋常高等小学校の「修身」の授業風景=1932年ごろ(神戸市西区の常光寺提供)

岩岡尋常高等小学校の「修身」の授業風景=1932年ごろ(神戸市西区の常光寺提供)

 中国・広東へ派遣された元従軍看護婦、藤田きみゑさん(98)=兵庫県稲美町=は、1920(大正9)年に同県岩岡村(現神戸市西区)で生まれた。第1次世界大戦の教訓から国際連盟が発足し、日本が加盟した年だ。

 「実家は農家でした。兄が1人と姉が2人、弟が1人の5人きょうだい。父は次男やったけど、働きもんやから、土地を次々と手に入れて。田んぼは1町3反(約1・3ヘクタール)ぐらいあったかな。タバコの耕作もしてて、お米より収入源になってましたね」

 「裕福でしたよ。流行の最先端を追ってた。ラジオとか大きな農機具とか、村で一番に買ってましたわ。友達が着物とわら草履で学校に通う中で、私だけが洋服とズック靴でした」

 藤田さんは、地元の岩岡尋常高等小学校(現神戸市立岩岡小)に通った。農家の子が多く、作業を手伝うのが当たり前だったが、藤田さんはできなかった。

 「兄と姉も手伝ってましたけど、私は虚弱児やったんです。とにかく息苦しくて、歩いて学校に通えない。父か兄に、自転車で送り迎えしてもらってました」

 「不思議なことに、体調が悪いのは春から秋まで。冬は割と元気だったから、ままごとや縄跳び、ドッジボールなんかしてましたね。病気が治ったのは6年生のころ。父が用意した薬を飲んでいたら、1年ぐらいで元気になりました」

 藤田さんは、尋常高等小学校から、さらに高等女学校への進学を志望した。

 「受験勉強もしとったんですけど、父に止められたんです。村の地主とか、村議が出てるような名家の娘でも女学校に行ってない。『うちなんかが進学させたら、世間に顔向けできない』ってね。姉2人も小学校を出た後は、農業を手伝いながら個人のお師匠さんに和裁と洋裁を習ってました」

 「はやりもの好きの父でしたが、『農家の娘は農家に嫁ぐもんや』という古い価値観やった。でも、私は農作業の経験がほとんどないものだから、農家の嫁には出せない。『それなら職業婦人に』となったんです」

 女性にとって、進学や職業選択の制約が大きかった時代。神戸市電の車掌などいくつかの候補の中から、親族や知人らの勧めで決まったのが、看護婦の道だった。(小川 晶)

2018/8/15
 

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