元従軍看護婦の藤田きみゑさん(98)=兵庫県稲美町=は1940(昭和15)年1月、大阪陸軍病院金岡分院(現堺市北区)で働き始めた。
「分院いうても、40近く病棟がある大きな病院でした。最初の配属は、内科病棟。戦地で肺炎や胸膜炎にかかって、内地に搬送されてきた人が多かった」
「兵隊さんの看護は初めてやったけど、病人は病人。それまでの民間病院と変わらなかったです。半年後に眼科病棟へ移ったら、動ける患者さんが多いもんやから、さらににぎやかで」
血判書を送ってまで戦争協力を直訴した藤田さん。兵隊の看護を通じ、さまざまな思いを抱く。
「天皇陛下のために命を懸けた兵隊さんと一緒ですやんか。お国のため、戦争のために働いとる満足感がありましたね」
「兵隊さんはみんな毅然(きぜん)としてて『立派やな』と思ったけど、かっこいいとは思わなかった。召集後、間もなくけがをして帰ってきて、『何てことやろ』という気持ちもありました」
1年ほどたった40年12月末、藤田さんは突然、外地への派遣命令を受ける。行き先は告げられなかった。
「相談も何もなく、看護婦30人が選ばれた。どんな基準だったのか、全く分からないんです。一緒に血判書を送って、陸軍病院に採用された友人は外れてた」
「人事担当者から『構わないか』と聞かれたんです。陸軍看護婦になった以上は、やっぱり戦場へと思ってましたし、『喜んで行きます』と答えました」
従軍看護婦は、藤田さんのような陸軍所属に加え、海軍所属や、日本赤十字社から派遣された救護看護婦がいた。救護看護婦は同社の「社史稿」に3万1450人(日中戦争-太平洋戦争、うち兵庫支部789人)と実数が残るが、陸海軍看護婦は不明という。従軍看護婦に詳しい大谷(おおや)渡・関西大教授(日本近現代史)は「外地の病院で不足が生じるたびに個別に派遣していたため、まとまった記録がない」と説明する。
「実家に帰る間もなく、広島の宇品(うじな)港へ向かった。大阪駅で両親と姉が見送ってくれました。母には『元気で帰っといでよ』と何回も言われました。寮生活の荷物と一緒に、撮ったばかりの私の写真を家族に渡しました」(小川 晶)
2018/8/17