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(5)金融恐慌 「小」が「大」のんだ合併
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生き残りへ覚悟の「劇薬」

 金融システム崩壊。悪夢が国民の脳裏をかすめた。日本経済は土俵際に追い詰められていた。

 一九九七年十一月。火を噴いた第二次金融危機は、北海道拓殖銀行の破たんから山一証券の自主廃業へと連鎖。二十六日に仙台の第二地銀、徳陽シティ銀行が破たんするに及んで、信用不安が全国に波及、各地で預金の取り付け騒ぎが起きた。日本は金融恐慌の様相を呈し始めていた。

 きっかけは、三日の三洋証券の会社更生法申請。金融機関同士が短期資金を融通し合うコール市場で、戦後初の債務不履行が起きた。問題は額ではなかった。

 もはや信用第一の金融機関ですら信用を守れない。市場は疑心暗鬼に陥り、資金の貸し手が次々に姿を消した。これに預金の大量流出が追い打ちをかけ、体力の無い金融機関の息の根を止めようとしていた。

 「国民は冷静な行動を」。大蔵大臣と日銀総裁がそろって国民に呼び掛けた十一月二十六日は、「日本が震えた日」として金融史に刻まれるに違いない。

 神戸・三宮にある阪神銀行頭取室で、矢野恵一朗は、「心臓がひっくりかえるほどの緊張感」に襲われていた。

 さくら銀行専務から就任して一年半。コール市場からなかなか資金が調達できず、不良債権に苦しむさくら銀の支援にも限界がある。「さくらは系列の阪神銀を見放す」とのうわさも流れ、株は売られ九十円を割り込んだ。

 「生き残る道はこれしかないのか…」。矢野にとって、みどり銀行頭取の米田准三から打診された「合併」の二文字が次第に現実味を帯び始めた。

 みどり銀は、震災復興を担ってスタートしたものの、兵庫銀行の不良債権という負の遺産を抱えたまま、嵐の中で失速しようとしていた。

 九七年半ばに入り、収益環境は急速に悪化。内情は債務超過ぎりぎり。米田は日銀総裁の松下康雄を訪ねた。「再建計画はもう持たない。手を打たないと…」

 日本中を震かんさせた金融危機が、みどり銀と阪神銀を急速に近づけていく。間を取り持ったのは大蔵省。奉加帳方式で資金を集めてまで作ったみどり銀の二次破たんは避けねばならなかった。

 十一月危機が沈静した九八年春、矢野は腹を固めた。「みどりが破たんすれば、阪神ももたない。生き残るにはこれしかない」。矢野は、「劇薬」と覚悟しつつ、提案をのむ腹を固めた。問題は合併の方式だった。

 大蔵省が示したのは、預金保険法の改正で九七年末に成立した「特定合併制度」。経営不振の銀行同士が預金保険機構に不良債権を買い取ってもらう仕組みだった。大阪の「福徳」と「なにわ」の両行がその第一号として「なみはや銀」になったが、後に行き詰まり、最初で最後の制度となったことで知られる。

 矢野が主張したのは、あくまで健全行の阪神銀が、経営悪化したみどり銀を救済する合併。矢野の戦略に追い風が吹き始めていた。

 拓銀の破たんは、取引先の大量倒産を引き起こし、「預金者」に加え「借り手」保護の必要性が高まった。九六年の住専処理以来、タブーとなっていた「公的資金導入論」が浮上し、九八年二月、改正預金保険法と金融機能安定化緊急措置法が成立、三十兆円の公的資金活用に道がついた。

 「うまくいけば、兵庫に強い地域金融機関をつくることができる」。矢野は機を逃さず逆提案した。預金量九千億円の阪神銀が一兆七千七百億円のみどり銀を吸収する。小が大をのむ合併は、公的資金枠が決まってから初の本格処理となった。(敬称略)

メモ

第2次金融危機

1997年
11・ 3 三洋証券が会社更生法申請
11・ 4 コール市場で債務不履行が発生
      同市場が機能不全に陥る
11・17 北海道拓殖銀行が経営破たんを発表
11・18 橋本首相の「公的資金導入とは言っていない」発言で東証が急落
11・21 米格付け会社が山一証券を格下げ
11・24 山一の社長が号泣の破たん会見
11・25 銀行・証券株が大量に売られる
11・26 仙台の徳陽シティ銀行が破たん
      蔵相と日銀総裁が異例の声明発表
      自民党が緊急対策本部設置。公的資金導入へ

メモ

金融システム安定化2法

 北海道拓殖銀行や山一証券の大型破たんが続いた1997年11月の第2次金融危機を機に公的資金導入の論議が高まり、98年2月に成立した。預金者保護を目的とした17兆円と、金融機関の自己資本の充実を目的とした13兆円の計30兆円の公的資金を活用できる仕組みが整備された。

2003/1/21
 

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