阪神・淡路大震災は、多くの働く場を直撃した。配置転換や大量の解雇。真っ先にその標的になったのが、パートなど不安定な雇用形態の女性たちだった。
「十四年間勤めた店が被災、再開時には再雇用すると約束したのに声がかからなかった」「勤務先の歯科医院は被害がなかったのに、震災を理由に解雇された」-。県立男女共同参画センター(当時・女性センター)には、震災直後から次々と女性たちが訪れた。
同センターが一九九五年一月末から三月末までに受けた労働相談は約三百八十件。解雇や雇用保険に関するものが大半を占めた。解雇されて初めて、雇用保険に加入しておらず、失業保険も出ないと知った人もいた。
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朴木佳緒留・神戸大学教授(ジェンダー論)は震災後、高校生と短大生約五百人に、震災前、直後、一年後の両親の家事分担について尋ねた。父親は、震災直後は重い物を運んだり危険な作業には参加していたが、日常的な家事はいずれの時期も母親が行っていた。
また共働き家庭の父親の25%が震災当日に出勤したのに対し、母親はフルタイム労働者でも一割未満。父親の三人に一人が家庭より職場の片付けを優先していたが、母親の八割近くは、家庭優先だった(表参照)。
「家族の助け合いが一種の美談として報じられたが、震災の混乱の中で性別役割分担は一層強固になった」と朴木さんは指摘する。
不安定な雇用に加え、家の片付けや家族の世話に追われて仕事に出られず、職を追われた女性も少なくなかった。
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「十年前と状況は変わっていない」。当時、同センターで相談にあたった川畑真理子さん(現大阪・とよなか男女共同参画推進センター相談担当主任)の実感だ。長引く不況もあって、今も雇用条件や解雇の相談は絶えないという。
実際、兵庫県内の雇用者に占めるパート・アルバイトの割合は44%(二〇〇二年)。震災前(九二年)の36・8%から増えている。パートタイム労働者の平均勤続年数は男性の60%が一-三年未満なのに対し、女性は三年以上が60%(〇一年)と、女性の就労としてパートタイムは常態化している。
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それでも、生活再建という差し迫った事情は、新たな動きも生み出した。
大手派遣会社パソナの神戸・元町の事務所には、仕事を求める電話や来社が相次いだ。当時はまだ直接の紹介はできなかったため、全国の支社が連携し、三カ月で販売やサービス部門の求人約二千件を創出した。同社取締役の山本絹子さんは、「この実績がその後の派遣業種の原則自由化に役立った」と話す。
待っていても仕事はこないのなら-。復興対策事業として県が開いた「女たちの仕事づくりセミナー」には、定員の二、三倍の応募があった。
受講生の安積昌美さんは二〇〇〇年、アメリカ・カントリー調小物の輸入、販売店を神戸市東灘区にオープンした。震災当時は翻訳の仕事をしており、自宅も無事だった。しかし「人生、何が起こるか分からない」と起業した。「再建した家を自分の好きな物で飾りたい」。今はそんな客の一言が励みだ。
もちろん、起業に結びついた人は一握り。経営も順調な人ばかりではない。だが、弱い立場にいるからこそ、資格や技能など自分で生きるすべを身につけたい。震災は、そんな女性たちの決意も後押しした。(片岡達美)
2005/1/22