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昭和初期ごろの京町筋の様子。左端が鈴木商店本店。その奥は横浜正金銀行(現神戸市立博物館)=神戸市文書館提供 現在の京町筋。左の立体駐車場が鈴木商店の本店跡=神戸市中央区海岸通(撮影・田中靖浩)
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昭和初期ごろの京町筋の様子。左端が鈴木商店本店。その奥は横浜正金銀行(現神戸市立博物館)=神戸市文書館提供

現在の京町筋。左の立体駐車場が鈴木商店の本店跡=神戸市中央区海岸通(撮影・田中靖浩)

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  • 現在の京町筋。左の立体駐車場が鈴木商店の本店跡=神戸市中央区海岸通(撮影・田中靖浩)

昭和初期ごろの京町筋の様子。左端が鈴木商店本店。その奥は横浜正金銀行(現神戸市立博物館)=神戸市文書館提供 現在の京町筋。左の立体駐車場が鈴木商店の本店跡=神戸市中央区海岸通(撮影・田中靖浩)

昭和初期ごろの京町筋の様子。左端が鈴木商店本店。その奥は横浜正金銀行(現神戸市立博物館)=神戸市文書館提供

現在の京町筋。左の立体駐車場が鈴木商店の本店跡=神戸市中央区海岸通(撮影・田中靖浩)

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  • 現在の京町筋。左の立体駐車場が鈴木商店の本店跡=神戸市中央区海岸通(撮影・田中靖浩)

 「鈴木商店の実力者として幾多の困難を克服して神戸に一大総合商社を育て上げ、貿易、海運、重化学工業界に数多くの輝かしい業績を遺(のこ)されました」

 1967年5月15日、神戸市中央区の市立中央体育館で開かれた神戸港開港100年の祝賀式。約5千人が埋め尽くす会場で、原口忠次郎神戸市長が港湾功労者25人を顕彰した。実業家五代友厚らとともに、鈴木商店の番頭金子直吉の名があった。鈴木の破綻から40年。金子が鬼籍に入って20年余が過ぎていた。

 土佐(高知)出身の金子が鈴木商店に入ったのは1886(明治19)年、20歳のときだ。創業者の鈴木岩治郎は砂糖引取(輸入)商として業績を伸ばしたが、94(同27)年に急逝。妻の鈴木よねは女店主「お家(いえ)さん」となり、番頭の金子と柳田富士松に経営を任せる決断をした。

 よねの信頼を意気に感じた金子。このときから希代の傑物といわれた本領を発揮する。

▼始まりは開港

 神戸港は1868年1月1日に開港した。外国人居留地では、今も街路に名が残るハンター、六甲山を開いたグルームら外国商人が活躍。新産業が生まれ、全国から続々と人が集まった。

 鈴木岩治郎もそんな一人だった。開港間もない74年(明治7)年、長崎で菓子職人の修業の後、神戸・弁天浜で砂糖問屋を開業した。数年後、薩摩(鹿児島)出身の川崎正蔵は川崎兵庫造船所(現川崎重工業神戸工場)を開いた。

 明治半ば以降、紡績、マッチなど軽工業が栄え、神戸は横浜と並ぶ二大貿易港となる。

 鐘淵(かねがふち)紡績(旧カネボウ)が兵庫区に進出し一大紡績会社に発展。総合商社・兼松の前身となる貿易商や、日本の代表的なマッチ会社清燧(せいすい)社が創業した。

 やがて、川崎造船所の後継社長として明治の元勲・松方正義の三男松方幸次郎がやって来る。後に金子と盟友となり、近代日本を神戸から動かす。

▼大戦景気で急成長

 鈴木商店は日清戦争後、飛躍のチャンスをつかんだ。セルロイドの原料となる樟脳(しょうのう)の一大産地台湾に目をつけた金子が、台湾総督府民政長官の後藤新平を説き、樟脳油販売権を獲得した。

 1960年に出版された「松方・金子物語」によると、川崎造船所の社長になる前に新聞社にいた松方幸次郎が社説「台湾の開発を論ず」を書き、それを読んだ金子が台湾進出を思いついたという。

 その本の巻頭には鈴木商店ロンドン支店長を務め、後に日商(現双日)会長となった高畑誠一が序文を寄せている。「2人は神戸の生んだ偉大な事業家で気宇も大であり、明治末期、大正時代に世界を股にかけて雄飛せんとしたことも一致する」

 金子の事業欲はとどまるところを知らなかった。樟脳からセルロイドや人造絹糸(けんし)の製造に乗りだす。さらに製糖、製鉄、造船へと拡大路線をひた走った。

 第1次世界大戦時には伝説を生んだ。物資高騰を予測した金子が「まっしぐらに前進じゃ」と、鉄や船舶、小麦などを一斉に買い占めた。予測は的中し、巨額の利益を得た。

 大戦最中の17(大正6)年、三井、三菱の財閥を抜き、日本最大の商社に。売上高は国民総生産の10%に達した。「スエズ運河を通過する船舶の積み荷の1割を占めた」といわれ、名実ともに世界のスズキに成長した。

▼焼き打ち、破綻へ

 絶頂期にあった18(同7)年、富山から飛び火した米騒動でコメの買い占め疑惑が広がり、本店が焼き打ちに遭う。

 後年、作家の城山三郎が焼き打ち事件を題材にした小説「鼠(ねずみ)」で真相を追及した。買い占めは誤解だったと結論づけ、ようやく汚名が晴らされた。

 経営の潮目が変わったのは第1次大戦後の反動不況だった。船舶や小麦の相場が暴落。巨額の借入金による拡大路線が裏目に出て資金繰りが悪化した。金融恐慌のあおりでメーンバンクだった国策銀行の台湾銀行が融資をストップし、27(昭和2)年4月に破綻した。

 日本最大の商社は幻と消えた。だが、日商を設立した高畑誠一や永井幸太郎、神戸製鋼所の生みの親といわれる田宮嘉右衛門、帝人社長の大屋晋三ら政財界に人材を輩出した。先駆的に取り組んだ事業の数々も今に残る。

 「鈴木商店は日本が必要とする産業を育てた」。神戸大の加護野忠男名誉教授(68)はこうも指摘する。「金子は志で走った。だがブレーキを踏む者、つまり、そろばん勘定する人間がいなかったことが不幸だった」

        ◇

 金子を突き動かした志とは何だったのか。なぜ鈴木商店は急成長し、崩壊したのか。その答えを探ろうと、取材班は発祥の地・神戸を巡った。

=敬称略=(村上早百合)

 この連載は鈴木商店関係者の親睦会「辰巳会」に取材協力、一部写真の提供を受けています。

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2016/4/8
 

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