1945(昭和20)年、旧日本海軍最大の戦艦「大和」が沈没してから、7日で76年となる。2008年に86歳で亡くなった元小学校教師の加島正さん=兵庫県小野市=は、大和の高角砲弾薬運搬員として、レイテ沖海戦などに参加。沖縄特攻直前に病気で艦を降り、九死に一生を得た。生前はぽつりぽつりと体験を周囲に語りながら、教育現場に立っていた正さん。遺族は、戦争体験と戦後の苦悩を乗り越えた正さんの姿が胸に焼き付く。
正さんは旧制小野中学校(現小野高校)卒業後、教師の道を歩むため、池田師範学校(現大阪教育大)に進学した。在学中に徴兵され、海軍に入隊。3カ月程度の訓練の後、大和に配属された。
1944年のレイテ沖海戦では、米艦載機の猛烈な空襲を経験した。突っ込んで来る戦闘、攻撃機に高角砲を放つ。何機かは墜落するが、それでも機銃掃射と爆弾が近くでさく裂する。
「機銃掃射で周囲の高角砲員のほとんどが死んだ。空襲後は、木製の甲板がささくれ立っていた」。体験を語る姿を、孫の加島悠さん(29)は鮮明に記憶する。
無事に呉(広島県)に帰還した後、体調に異変が生じた。足に障害が出る「かっけ」を患った。療養のため、艦を降りて入院した。その最中に大和は沖縄への特攻作戦に出撃し、1945年4月7日、海に沈んだ。
正さんは戦後、小学校の教員として子どもたちを育てた。敗戦で、日本の教育内容は大きく変わった。息子の淳さん(63)は父を思う。「戦前の師範学校で学び、戦場でも信奉してきた考えが『間違っていた』と世間に言われたようなもの。価値観の相違の中、教壇に立つ度に自問自答していたのでは」
15年ほど前、正さんと家族が大和ミュージアム(広島県)を訪れた。職員と話した正さんは、無言で涙を流していたという。
晩年は、詩吟、コーラス、書道など、多く趣味を楽しんだ。亡くなる直前、病床で「いい人生だった」と正さんが絞り出したのを、淳さんは聞いていた。
淳さんは言う。「戦争の記憶や価値観の変遷に悩みながらも、よりよい社会のために教職を全うしたからこそ、出てきた言葉だと思う。苦悩を乗り越えて生きた姿を、胸に刻んでいます」(杉山雅崇)

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