三田

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中後活也さん
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中後活也さん
幼少期の中後茂さん(中央)
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幼少期の中後茂さん(中央)
中後活也さんのはがき。夢に出た長男茂さんの姿を描いている
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中後活也さんのはがき。夢に出た長男茂さんの姿を描いている
幼い茂さんが読めるようにと全て片仮名で書いたはがき
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幼い茂さんが読めるようにと全て片仮名で書いたはがき
はがきを前に思いを語る茂さん=三田市
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はがきを前に思いを語る茂さん=三田市

 ある夜、戦地の父は遠くで暮らす幼子の夢を見た。息子は鉄かぶとをかぶり、剣で遊んでいた。翌日、父は筆を執り、その面影をはがきにしたためた。指の一本一本、服のしわ、顔の陰影。丁寧に描き込まれた細部に、会いたい気持ちが宿る。「お父さんが帰る迄(まで)待って居なさいね」「凱旋(がいせん)したら遊びに行きましょう」。何通も何通も、そう記した。しかし父の願いがかなうことはなかった。(小森有喜)

 兵庫県三田市の木造民家。中後茂さん(84)が、大切に保管しているはがきや便箋を並べてくれた。すべて父活也さんから届いたものだ。合計113通。幼い2人の子どもの成長を喜び、男手を欠いた農作業に汗する妻をねぎらう様子が書き連ねられている。

 活也さんが有馬郡貴志村(当時)から出征したのは1939(昭和14)年。27歳だった。中国・広州やフランス領インドシナ(仏印・現在のインドシナ半島東部)に赴いた。家族に届いた便りは、最も古い日付が同年11月。そこから3年にわたり、4歳年下の妻こふみさん、出征時3歳だった長男茂さん、1歳の次男仁美さんに送った。およそ2割が子どもに宛てたものだ。

 茂よ 毎日元気で遊んで居るかね。此(こ)の頃は大分暑いだろう。お父さんも暑いけれども暑さに負けずに戦をして居ります。

 佛印(ふついん)にはね、茂や仁美がよろこぶ様な小さなお馬がゐるよ。お父さんが乗ると足が地につく位小さい可愛(かわい)い馬です。

 手紙を通して知るわが子の成長も楽しみにしていた。茂さんによると、当時は平仮名より先に片仮名を習った。すると父は、すべて片仮名で書いたはがきを送ってきた。米英との戦も説明しつつ、「シゲルガネテイルトコロヲカキマシタ」と、釣りざおや電車のおもちゃを枕元に置き、寝入っている茂さんのイラストも添えた。

 茂さんが学んだばかりの字で手紙を書くと、返事が来た。

 茂ちゃんお便りありがとう。毎日元気で仁美と仲良く遊んで居るとの事読んでお父さんは大変うれしかったよ。茂ちゃんのお手紙が誰の手紙より一番うれしかった。

 これほど「うれしい」が繰り返された便りは他にはなかった。「又お母さんに書いてもらって何べんも下さい」と結ばれていた。よほど心待ちにしていたようだ。

 活也さんは、家族の様子を知りたがり、ある時妻にこう頼んだ。「一度子供やお前の写真でも送って呉(く)れないかね」。その後のはがきでは、「写真本日入手致しました。皆々元気な姿を見て安心いたしました。子供等は大分驚いた様な顔をして今にも泣き出しそうだね。でも其(その)中に又可愛い所があるよ」と喜びをつづった。

 一方、手紙とともに、現地の様子を伝える写真も送った。幼い茂さんに覚えていてほしかったのか、自身の写真を送っては、こう書いた。

 お父ちゃんが何処(どこ)に居るか探してください。

 お父ちゃんをあててみて下さい。ホクロが見えないから知れない(分からない)かな。上手に探して仁美におしへてやって下さい。

 自分が不在にしていることで、子どもたちにふびんな思いをさせていないかも常に気に掛けた。折りに触れて現金を送り、こふみさん宛てのはがきには、息子たちに「ほしがる物を買ってやって呉れよ」と書いた。

 遠く離れて暮らすわが子。夢で会えても、目が覚めれば会いたい気持ちはさらに募った。

 昨夜お父さんは茂と天神公園へ遊びに行って居る夢を見ました。でも夢で駄目でした。今度お父さんが凱旋したらほんとうに遊びに行きましょうね。仁美もつれていきましょう。

 現地から届いたすべての便りに「検閲済」と赤く押印されている。戦争に対して消極的な言葉は書けず、部隊の内情を伝える箇所は一部が黒塗りされていた。

 そうした状況下、抑えめながらも妻や子への愛情をつづり続けた活也さん。しかし、ある時を境に便りが途絶えた。こふみさんが42年10月に送った2通の便箋は、宛先不明のまま戻ってきた。

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