長崎は9日、原爆投下から76年を迎える。被爆者が次々と鬼籍に入り減少を続ける中、当時長崎市に住み、入市被爆した兵庫県三木市の男性(80)が今年6月、原爆症に認定された。被爆したことは家族内でも口にしてこなかったが、70歳を過ぎて認定を申請し、これを却下した国を提訴した。男性はいう。「自分たちが引いたら、同じように苦しむ人たちも認められなくなる」。76年を経て届いた認定書に思いを込める。
当時4歳だった高橋一有さんは原爆が投下された1945年8月9日、祖父の墓参りのため、爆心地から約60キロ離れた長崎県島原市にいた。3日後の12日、行方が分からなくなっていた祖母らを捜すため、爆心地から1キロほどの長崎市内の自宅に戻り、家族で入市被爆した。
2人の姉の将来を案じ、家族から被爆を口外することを禁じられた。「被爆した人を(嫁に)もらってくれる人はいない」。父はそう告げた。だが、記憶を消し去ろうとしても、放射線の影響は消えなかった。子どものころからけがの治りが遅く、傷口がすぐに化膿し、ペニシリンをよく打っていた。
長崎市内で証券会社や運送業の会社に勤め、21歳で結婚。年を重ねるにつれ、胃や腸に痛みを感じるようにもなった。放射線が体をむしばんでいることを悟り、被爆者健康手帳の取得を決意した。被爆から40年以上が過ぎた1989年のことだった。
数年後に心筋梗塞を発症し、長崎市から次女が住む三木市に転居。兵庫県内の病院の助言で原爆症認定制度を知った。2011年、国に認定申請したが却下。不服とし、処分取り消しを求めて13年に国を提訴した。
大阪地裁での一審は敗訴したが「次につなげるためにも最後までとことんやる」と控訴。今年5月、大阪高裁は判決を変更し、国の処分は取り消された。国は上告せず、6月18日付で原爆症が認定された。
兵庫県によると、21年4月1日現在、県内の被爆者は2674人。原爆の放射線が原因で起こった病気やけがについて認められる原爆症認定者は184人。戦後76年になり、いずれも年々減少している。高橋さんは「核兵器は恐ろしい。将来の子どもたちのためにも伝えないと」と話す。(長沢伸一)