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山田風太郎、終戦後の葛藤「いまだすべてを信ぜず」 当時の思いを漫画化した「不戦日記」完結

2021/08/14 11:15

 日本が終戦を迎えた1945(昭和20)年。その1年間の身の回りの出来事を書き残した医学生の日記を漫画化した「風太郎不戦日記」が、講談社の週刊漫画誌「モーニング」で2年間の連載を終え、先月完結した。主人公は後に人気作家となった兵庫県養父市出身の山田風太郎(1922~2001年)で、物語は実際の日記に基づく。終戦の日を前に、同社の担当者は「風太郎が見た戦時中を感じてほしい」と話す。(阿部江利)

 山田は戦後を代表する娯楽作家で、58年から始めた「忍法帖シリーズ」など奇想天外な大衆小説で知られる。漫画の原作「戦中派不戦日記」は、山田が東京医学専門学校(現東京医科大)在学中に書き、71年に出版された。

 漫画化を担ったのは、人気女性漫画家の勝田文さんだ。戦時中の資料は限られるため現地取材などで補った。但馬も訪れ、山田風太郎記念館(養父市)などの協力を得て、ゆかりの場所や人を巡って風景や方言などの参考にしたという。

 漫画は、作家として成功した晩年の「山田風太郎」が書斎で、自らが日記に書き残した昭和20年を「日本の歴史上もっとも恐るべきドラマチックな1年間だろう」と回想する場面から始まる。山田は東京で暮らす医学生で23歳。1年前に召集令状を受けたが、肋膜(ろくまく)炎を患って寝込んでいた直後で、徴兵を免れていた。

 日記の1月1日には「運命の年明く」とある。米軍機を狙う高射砲の音が響く中、山田は避難もせず布団に入り「祈るらく、祖国のために生き、祖国のために死なんのみ」と念じる。

 5月24、25日の大規模空襲では下宿や周辺一帯が焼け野原に。住む家や家財をなくし、満員列車で山形や但馬を転々とする。この間は日記も書けなかった。6月5日朝、故郷の但馬で「記憶をたどりたどり」まとめて執筆している。

 終戦の8月15日は、大学が丸ごと疎開した長野県にいた。授業の後、寮で玉音放送を聞いて「嘘だ!」と繰り返すが、ついに「…嘘ではない…」と涙する。日記には「炎天 帝国ツイニ敵ニ屈ス」とつづった。

 さらに、何事もなかったように訪れる日常や、敗戦を受け入れられない人々の様子に、山田は激しく鉛筆を走らせる。「戦いは終わった。が、この一日の思いを永遠に銘記せよ!」と、気持ちをぶちまけた。

 終戦後、日本人の生活や価値観、感情が変化していく様子に、複雑な思いを抱く山田。年末、但馬に帰郷し、皆がそれぞれ仕事をする姿に「戦いもせず 死にもせず 自分はただの傍観者だった-」ことにじくじたる思いを抱く。

 大みそか。山田は戦前・戦中を引きずったまま、年を越そうとしていた。「運命の年暮るる。いまだすべてを信ぜず」。場面は最初の書斎に戻るが-。

 「物語はハッピーエンドではない」。モーニング編集部の担当部長、岩間秀和さん(51)は話す。「兵隊に行けなかった葛藤ややり場のない思いは計り知れないが、共感できる部分もある。もし風太郎が生きていれば、今も『いまだすべてを信ぜず』と言うのではないか。風太郎の言葉は今にも続いている」

 「風太郎不戦日記」は単行本最終刊の3巻も発売されている。

■養父の記念館「今に共通するもの感じて」

 山田風太郎が終戦の前後を記した「戦中派不戦日記」の漫画制作では、故郷・養父市の山田風太郎記念館も協力した。今年は没後20年、来年は生誕100年を迎える。同館の有本正彦事務長(76)は「若い人たちにも読んでもらえてありがたい。戦時中を扱う作品だが、今の時代にも共通するものを感じてもらえるのではないか」と話す。

 有本さんによると、山田は推理・探偵小説でデビューした異端派。娯楽性が高く、荒唐無稽な話や怪奇話など、読者をあっと驚かせ、楽しませる作品が多い。一方で内面は冷静で理性的でニヒル。ユーモアも、科学的な視点も持つといい、「よく知られる作風と『戦中派不戦日記』はギャップが大きい」という。

 山田は時代に流されず、時代時代に冷めた目を向け、戦後の繁栄の渦中に亡くなった。1973年に書かれた「不戦日記」のあとがきは「人は変わらない。そして、おそらく人間の引き起こすことも」と締めくくられている。

 有本さんは「戦争とは違えど、コロナ禍も『誰一人例外なく投げ込まれている』『絶えず不安の中に人間が置かれている』という点や、それに対する対応も似ている点があるのではないか」と話す。(阿部江利)

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