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関西学院大の「旧院長室」を訪ね、現存する奉安庫について職員に質問する貴島正秋さん(左)=西宮市上ケ原一番町
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関西学院大の「旧院長室」を訪ね、現存する奉安庫について職員に質問する貴島正秋さん(左)=西宮市上ケ原一番町
関西学院大学の旧院長室に残る「奉安庫」。分厚い金属製を含む四重扉の堅固な構造になっている=西宮市上ケ原一番町
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関西学院大学の旧院長室に残る「奉安庫」。分厚い金属製を含む四重扉の堅固な構造になっている=西宮市上ケ原一番町

 太平洋戦争が開戦した真珠湾攻撃から8日で丸80年となった。当時、全国の学校には国の指示で、天皇皇后の肖像写真「御真影」と教育勅語の謄本を保管する「奉安庫(奉安殿)」が設けられていた。戦後に相次いで解体されたが、消失、風化が進む戦争遺構の一つとして、元教員らが注目。天皇が神格化され、国民が軍国主義に染まった過程を知る資料として調査も進んでいる。(井上太郎)

 西宮市の関西学院大学西宮上ケ原キャンパス。正門を入ってすぐにある本部棟の2階、「旧院長室」の部屋の壁に職員が手をかけると、その一画がゆっくりと左右に開いた。

 現れたのは、重厚な金属製の二重扉。その奥に木製扉がある。上部に白い幕を垂らした間口50センチ四方の木箱で、傷みは目立たず、きれいに保存されている。

 この「奉安庫」は1937(昭和12)年に作られた。御真影と教育勅語の謄本を厳重に守る保管場所で、校舎から独立させた場合は「奉安殿」と呼ばれた。

 大学によると当時、御真影の受け入れに消極的だったキリスト教系の私立高等教育機関は、文部省の指導を受けた。現在の同志社大や立教大が次々に御真影を保管し始めても、応じなかった関学。当時のC・J・Lべーツ院長に「出頭命令」が出て、やむなく応じたという。その後は教職員が昼夜を問わず、当番制で警護したとの記録が残る。

 御真影と教育勅語が、学校現場に置かれたのは明治期までさかのぼる。1891(明治24)年11月、文部省は訓令で、全国の学校に保管を求めた。

 〈一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ〉

 国民は忠義を尽くし、紛争時は命をささげて天皇を守るべきとされた教育勅語。子どもも教職員も繰り返し奉読した。御真影には、必ず最敬礼。勅語を誤読したり御真影を焼失したりすると「不敬」とみなされ、教員のみならず、時には市町村長や知事の進退にも及び、命がけで守るのが当然になったとされる。

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 終戦後、「国家神道」を廃止しようとする連合国軍総司令部(GHQ)の指令で一気に奉安庫と奉安殿の撤去、解体が進んだ。

 奉安庫に後ろ向きだった関学はなぜ、撤去しなかったのか。学院史編纂室の池田裕子さんは「『せっかく作ったのにもったいない』と損得で考えたのでしょう」と推し量り、苦笑する。

 「金庫に使いたい」と国に申し出ると認められ、戦後も残された。連合国の占領管理下では、キリスト教系の関学の希望は通りやすかったと考えられる。

 ただ、奉安庫(殿)は年々減っている。元教員らでつくる「戦争遺跡研究会」(名古屋市)の調査では、2020年12月時点で残るのは全国で557カ所。元小学校教諭で同会世話人の清水啓介さん(74)=名古屋市=は「戦時の教育と戦後の教育改革を知り、同じ過ちを繰り返さないため、文化財に指定するなど自治体も関わって平和教育に生かすべきだ」と訴える。

■県内には関学大や豊岡高、神戸高など10カ所に残る

 兵庫県内の学校では、関西学院大のほか、豊岡高校(豊岡市)など10カ所に、奉安殿や奉安庫が現存するとみられる。神戸高校(神戸市灘区)には全国的にも珍しく、奉安庫と、式典で御真影を掲示した「奉掲所」の二つが残るという。

 「その存在をついぞ、誰にも教わらなかった」と話すのは、関西学院大OBの元大学教授で、同大学でも助教授などを務めた貴島正秋さん(81)=神戸市灘区。教職を退職後のおととし、母校の記念誌を読んで、旧院長室の奉安庫を知った。神戸・阪神間の高校や大学の記念誌も調べて個人的に現地を訪ね、ほかに現存する奉安庫を確認している。

 真珠湾攻撃の前年に生まれた貴島さんは、疎開先の鹿児島市で空襲を経験した。真夜中、焼夷弾に焼かれる街を母と懸命に走って防空壕に逃げ込んだという。「恐怖の中で御真影を守ろうとした教員と家族がいたと思うと、やりきれない気持ちになる」といい、残された奉安庫を「平和の尊さを訴える重要な題材」と捉えている。(井上太郎)

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