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母正子さんのちらしを手にする佐藤悦子さん。手前は母の写真と焼け跡から見つかった腕時計や小銭=加古川市内(撮影・中西幸大)
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母正子さんのちらしを手にする佐藤悦子さん。手前は母の写真と焼け跡から見つかった腕時計や小銭=加古川市内(撮影・中西幸大)
実家跡で行われた佐藤正子さんの葬儀。娘の悦子さん(右から5人目)とその姉齊藤礼子さん(同4人目)も参列した=1995年7月2日、神戸市須磨区大田町(佐藤悦子さん提供)
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実家跡で行われた佐藤正子さんの葬儀。娘の悦子さん(右から5人目)とその姉齊藤礼子さん(同4人目)も参列した=1995年7月2日、神戸市須磨区大田町(佐藤悦子さん提供)
佐藤悦子さん
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佐藤悦子さん
「慰霊と復興のモニュメント」にある佐藤正子さんの銘板=神戸市中央区(撮影・中西幸大)
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「慰霊と復興のモニュメント」にある佐藤正子さんの銘板=神戸市中央区(撮影・中西幸大)
神戸新聞NEXT
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 6434人が亡くなった阪神・淡路大震災から、27年がたとうとしている。この長い年月を経てなお、行方不明のままの被災者が3人いることをご存じだろうか。遺体はもちろん、遺骨も見つかっていない。兵庫県加古川市の佐藤悦子さん(58)の母、正子さん=当時(65)=もその1人だ。神戸市須磨区で被災した。「ひょっとして、どこかで生きているのでは」。整理のつかない喪失感を抱えながら、母を捜し続ける悦子さん。彼女の歳月をたどり、悲しみとの向き合い方について考えたい。(論説委員・小林由佳)

 1995年1月17日、悦子さんが小学生の娘2人と暮らす加古川市の自宅もかなり揺れた。すぐに母が1人で住む神戸の実家に電話をしたが、応答がない。やがて呼び出し音も鳴らなくなる。それでも「お母ちゃんは近くに避難しているやろう」と思っていた。

 翌朝、神戸市内に住む兄が訪ねてきた。「おふくろ来てるか」と問われ、「いるわけないやん」と笑うと、兄の表情がさっと変わった。「あほか! 家ないねんぞ」。実家の大田町の木造2階建てアパートは全壊し、近所で発生した火事で焼けたと知らされた。

 20日未明、悦子さんは知人のバイクに乗せてもらって神戸に入る。実家の周囲は停電で真っ暗な上、住宅が倒れ、電線がぶら下がっている。近くの須磨警察署で明るくなるのを待ち、アパートの場所にたどり着くと、自衛隊員が掘り起こしを始めるところだった。

 「1階のこの辺りに母が住んでいたんです」と駆け寄り、捜索を見守る。母のベッドが金属の枠だけになって出てきた。愛用の腕時計、傘、小物入れに年賀状も。熱で一部が溶けた洗濯機の中には、見覚えのある服が入ったままだ。

 同じアパートの住民の男性が遺体で見つかり、死因は圧死と聞かされた。母も圧死したところへ、火が回ったのだろうか。

 捜索は約2カ月間で計6回に及んだ。敷地を丁寧に掘り返し、兄と一緒に白っぽいものを拾ってはふるいにかける。だが、骨のかけらすら確認できない。「骨は残るもんやけどなぁ。須磨の七不思議と言うか…」。捜索に加わった警察官が首をひねった。

     ◇

 父の昭夫さんが離婚届を置いて家を出たのは、震災の前年のことだ。以来、正子さんは1人で暮らした。若いころから働きづめで、震災前日も近所の生花店に出勤していた。がれきの中から、通勤に使っていた自転車が出てきたことを考えると、やはり自宅で被災した可能性が高い。

 もしかしたら、母は記憶喪失になっているのかもしれない。そう思った悦子さんは避難所や病院、高齢者施設を回った。知人が写真入りのちらしを作り、あちこちに張ってくれた。

 「須磨の海岸でぼろぼろの袋を持ったおばさんを見かけた」「『パンをください』と店に来た女性がいる」。ちらしを見た人から電話が入ると、仕事を休んで駆けつけた。どれも真実味を持って響いた。

 阪神・淡路の行方不明者は一時、1071人に上った。それも2月初旬には1桁になる。3月半ばを過ぎたころ、兵庫県警須磨署から思わぬ連絡が入る。「あなたのお母さんにはもう1人娘がいて、群馬県に住んでいることが分かった」。悦子さんより12歳年上という。初めて聞く話だった。

     ◇

 小雨が降っていた。1995年7月2日、神戸市須磨区の実家跡に立つ佐藤悦子さん(58)のすぐ後ろに、姉の齊藤礼子さん(70)の姿があった。

 阪神・淡路大震災で行方不明になったままの母、佐藤正子さん=当時(65)=を弔う読経が響く。親戚に促されての葬儀だったが、悦子さんは区切りをつける気になれない。おっとりした母の顔を思い浮かべる。全壊し、火に包まれたアパートからは遺体も骨も見つからず、骨つぼには跡地のがれきを入れた。ふと見ると、姉も泣いていた。

 須磨警察署から異父姉の存在を知らされたのは、この年の3月半ばのこと。母は最初の結婚で娘を産み、離婚後に2歳半で養子に出した。それが礼子さん。群馬県に住んでいた。

 悦子さんの兄も、母が再婚とは知らなかった。地震の前年に母を置いて家を出た父を問いただすと、「子どもがいたことは、わしも直接聞いてないんや」。どうやら両親の不仲の原因らしい。しかし、悦子さんは姉の存在を喜んだ。

 ほどなく、きょうだい3人の対面が実現する。JR鷹取駅前で見た瞬間に姉だと分かった。顔も体形も母によく似ていた。

     ◇

 震災の翌日、悦子さんは不思議な体験をする。連絡の取れない母を心配しながら、どうしても外せない仕事があって加古川市内の会社に出勤した。

 夕方、来客用のコーヒーカップを洗っていると人の気配がした。給湯室の入り口にかかるのれんの向こうに誰かが立っている。あいにく他の社員は不在。人影が動いたので慌てて給湯室を出ると誰もいない。

 「あっ」と思った。のれんの下からのぞいた服に見覚えがある。母が冬によく着ていた毛糸のロングスカートと、毛玉ができた靴下。「お母ちゃん、何かを言いに来たんやろうか…」。嫌な予感がしたが、不思議と怖くはなかった。

 だから、姉がいると聞いて胸にすとんと落ちた。「黙っていたけれど、もう一人娘がいる」。母はそれを伝えたかったのだろう。手放した娘に会いたくて親戚に相談していたと後に聞き、胸が詰まった。

 一方、姉の礼子さんは高校生の時に自分が養女だと知る。結婚後、子育てが一段落したら実母を捜すつもりだった。そこへ、阪神・淡路が発生。須磨署から「お母さんがそちらに行っていないか」との電話を受けた。

 「ずっと一人っ子だと思っていたから、妹と弟に会えたのはうれしい」と礼子さん。でも母には…。遺骨すらなく、会えないままに参列した葬儀で流した涙は、悔し涙でもあった。

 震災翌年の96年、裁判所から失踪宣告を受け、正子さんの戸籍は抹消される。兄が手続きをした。

 しかし、悦子さんは諦めない。シングルマザーとして小学生の娘2人を育てながら、母の手がかりを探す日々。悲しみや怒り、焦りから家事が手につかなくなり、夜も眠れない。通院すると、うつ病と診断された。

     ◇

 母が見つからないのは私のせいだ-。

 兵庫県加古川市の佐藤悦子さん(58)は、阪神・淡路大震災で行方不明になった母正子さん=当時(65)=を捜すうち、自分を責めるようになる。震災から2年が過ぎ、うつ病と診断された。

 仕事を辞め、小学生の娘2人の食事を作るので精いっぱい。ある日、長女が「目がかゆい」と言いだした。結膜炎だった。掃除に手が回らず、家の中はほこりだらけ。目をこする娘にはっとする。「このままでは子どもらを犠牲にしてしまう」

 27歳で離婚し、1人で娘を育ててきた。新しい仕事を探さなければ。くじけそうな気持ちを奮い立たせた。

 そのうち、地震で全壊した神戸市須磨区の実家跡に、新しい家が建った。もう母の手がかりを探せない。

 悦子さんは思う。母は既にこの世にいないだろう。でも、自分は遺族になりきれない。母がどのように亡くなったかが分かれば、せめて遺体や遺骨が見つかれば、死を受け入れられるかもしれない…。

 震災から10年が過ぎるころには、たまに夢に出てきた母が現れなくなった。

     ◇

 2011年3月11日、東日本大震災が起きる。行方不明者数は一時1万5千人を超えた。

 ボランティアとして捜索を手伝いたい。悦子さんは被災地に行くことを考えた。肉親を捜す人の気持ちは痛いほど分かる。だが、目の前の仕事や生活に追われ、実現できなかった。

 災害や事件の行方不明者が何年もたってから遺体で見つかったというニュースに接すると、須磨警察署に駆け込みたい衝動にかられる。「もう1回、お母ちゃんを捜して」と。

 いくら年月が過ぎても、「節目」など訪れない。悦子さんは、中ぶらりんな気持ちをどう表現していいか分からなかった。

 3年ほど前のことだ。「あいまいな喪失」という考え方に出合った。米国の心理療法家ポーリン・ボス博士が提唱し、ケアの現場で使われている。家族が行方不明であるなど、気持ちの整理が付かない状態を「あいまいな喪失」と名付け、苦しみの原因としていったん棚上げし、客観視することが大切という。

 その一つのタイプが「さよならのない別れ」。心の中には存在するが、現実にはいない状態を指す。

 以来、悦子さんは母への思いを尋ねられると「さよならのない別れです」と答えている。

 娘2人は独立し、孫もできた。母にとってはひ孫。見せてやりたかった。群馬県に暮らす姉、齊藤礼子さん(70)とはメールで近況を知らせ合う。「お姉さん」と呼べるのがうれしい。

 周囲にも阪神・淡路を知らない人が増えた。だからこそ、母のように今も行方不明のままの人がいることを知ってほしい、家族を捜して喪失感を抱える自分のような存在を知ってほしい、と願う。

 神戸・東遊園地のモニュメントに母の名を刻んだ銘板がある。お墓の代わり。花と手紙を携えて、今年も1月17日に会いに行く。

【特集ページ】阪神・淡路大震災

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