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15歳の時に長崎の軍需工場で被爆した体験を語る松井清さん=神戸市兵庫区(撮影・三津山朋彦)
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15歳の時に長崎の軍需工場で被爆した体験を語る松井清さん=神戸市兵庫区(撮影・三津山朋彦)
松井清さん(後列左)ときょうだい。姉の朝子さん(前列右から2人目)以外の4人は原爆で亡くなった(松井さん提供)
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松井清さん(後列左)ときょうだい。姉の朝子さん(前列右から2人目)以外の4人は原爆で亡くなった(松井さん提供)
松井清さん(右)ときょうだい。新潟の海に家族で遊びに行った際に撮影された(松井さん提供)
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松井清さん(右)ときょうだい。新潟の海に家族で遊びに行った際に撮影された(松井さん提供)

 きょう9日、長崎は原爆投下から77年を迎える。神戸市兵庫区の松井清さん(92)は15歳で被爆し、両親ときょうだいの計7人を原爆に奪われた。これまで小中学校などで壮絶な経験を語ってきたが、高齢のため11日にある講演会を最後に一線を退く。「亡くなった家族の名前を朝晩唱えて祈りながら過ごしてきた。『生きよう、生きよう』としたのに亡くなっていった家族のことを知ってほしい」(綱嶋葉名)

 松井さんは、7人きょうだいの長男。父照之助さんの転勤で全国を転々とする子ども時代を過ごした。長崎に移ったのは、1944年の秋。家族でスキーや海遊びを楽しんだ新潟に比べ、「戦争末期で、物が十分になかった」と振り返る。

 半年ほど学校に通った後、翌年6月から三菱長崎兵器製作所大橋工場(爆心地から約1・3キロメートル)へ学徒動員された。自宅から歩いて通い、魚雷の部品づくりを1日12時間こなした。

 8月9日の朝もいつものように午前7時に出社した松井さん。曇り空だったのを覚えている。1週間前に配置換えがあり、工場内のコンクリートの壁際で部品の検査に当たっていた。暑さから上半身裸になり、「おなかすいたなあ」と友人と話しながら時計を見上げた瞬間だった。

 「目もくらむすさまじい光に辺り一帯が包まれた、何が起きたか分からなかった」。飛んできた部品が頭に当たり血が出たが、友人と慌てて外へ飛び出した。「薄暗闇の中に茶褐色の太陽がぽっかりと見えた。この世とは思えなかった」

 近くの丘まで逃げ、工場が燃える様子をぼんやりと眺めた。日が落ちてからようやく自宅(爆心地から約900メートル)に帰ると、庭に血痕が見えて「ああだめだ」と悟ったという。幼い妹4人は、全身やけどで9日中に死亡。即死だった妹2人は、ひつぎ代わりにたんすの引き出しに入れた。「かわいそうだから見てやるな」と父は言ったが、後日「全身焼けただれて、シャツの貝ボタンが肌に張り付いていた」と明かした。

 8月25日には、松井さんが「ケン」と呼び、一番仲の良かった弟健次郎さん=当時(13)=も、全身にガラス片を浴びた状態で息を引き取った。松井さんは「小柄だけど勉強も運動もよくできた」と振り返り、「最後まで弱音を吐かず、『さようなら』と言って死んでいった」と涙をにじませる。

 同じ日に母ハルノさんも息絶え、27日には苦労人で周りからよく慕われていた父が後を追った。にぎやかな9人家族は、姉朝子さんと松井さんだけとなった。

 その後、神戸の叔父の家に身を寄せ、大学卒業後は神戸銀行(現三井住友銀行)に入行。在職中からボーイスカウトの活動に励み、退職後は高齢者や障害児のためのボランティア活動に汗を流した。「生き残ったという思いがずっとあった」と松井さん。「自分も人のために何かできればとずっと続けてきた」

 被爆経験も、望まれれば話してきた。神戸市内の小中学校で講演してきたが、「90歳を超えて体力的に限界を感じる。年にはあらがえない」と一線を退く理由を漏らす。

 11日の講演会ではこれまで詳しく語れなかった家族の最期などについても話す。「将来の夢があってもっと生きたかった人がいた。そんな家族の思いをただ伝えたい」とする。

 77回目の原爆の日を前に、ロシアのウクライナ侵攻などが起きている世界情勢に心を痛める。「原爆の前にとにかく戦争がいけない。第2次世界大戦後にもう戦争はしないと世界は誓い合ったはずなのに、ただむなしい」

 講演会は、神戸市立婦人会館(同市中央区橘通3)で11日午後1時半~同4時。入場無料。

神戸戦後77年
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