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太平洋戦争前後に発行された新聞を読んで記憶をたどる吉龍資雄さん=芦屋市潮見町
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太平洋戦争前後に発行された新聞を読んで記憶をたどる吉龍資雄さん=芦屋市潮見町

 戦争を肌で知る人が年々減っていく。一方で、ロシアのウクライナ侵攻に伴い、国際情勢が緊迫の度合いを増す。きょう15日、77回目の終戦の日。あの時代を生きた兵庫の人々に、話を聞いた。戦争で何が起こるのか、改めて考えるために。

 「公ニ奉シ」。国家のために生き、死も辞さない-という価値観が、国中を覆っていた。芦屋市の医師、吉龍資雄さん(91)も、中国・満州や大連で軍国少年として育った。「日本国民としての義務を果たす。当時はそれが当たり前だった」と話す。

 小学生時代の多くを満州・奉天で過ごした。体操の整列は「ミニ軍事訓練」のような厳しさ。高学年になり、大連に引っ越した頃には既に教育勅語をそらんじており、一節にあった「公ニ奉シ」という価値観を共有していた。「あの時は、軍人になりたいと心から思っていた」

 1941年12月。開戦を経て、教育は苛烈さを増した。旧制中学で、軍刀や銃剣の扱いを学んだ。いざという時は敵を殺せるように。「殺人テクニック」と感じた。

 3年時は無線機の部品を作る工場で働いた。週に1度の登校日は、主にほふく前進の訓練。別の中学では、リヤカーを戦車に見立て、爆弾代わりの座布団を抱えて飛び込む特攻訓練が行われていた。いよいよ自分たちの学校でも特攻訓練が予定された日が、終戦の日となった。

 大連はソ連軍に占領され、暴行や強盗が繰り返されるのを目の当たりにした。混乱の中、近所の知り合いが飢えて死に、遺体は知人と山に運んで埋めた。無力だった。惨めだった。

 生まれてから終戦を迎えるまで、平和な時代は一度もなかった。「当時は国のために生きるのが当たり前だった。国を愛する心は大切。軍国少年でなくなった今でも、そう思う」。吉龍さんは、かみしめるように話した。(大橋凜太郎)

戦後77年
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