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集団暴行事件で息子を失って25年。長男聡至さんの遺影の前で話す高松由美子さん=兵庫県稲美町印南(撮影・吉田敦史)
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集団暴行事件で息子を失って25年。長男聡至さんの遺影の前で話す高松由美子さん=兵庫県稲美町印南(撮影・吉田敦史)
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集団暴行事件で息子を失って25年。長男聡至さんの遺影の前で話す高松由美子さん=兵庫県稲美町印南(撮影・吉田敦史)

 兵庫県稲美町で1997年8月、高校1年だった高松聡至さん=当時(15)=が元同級生らに集団暴行を受け、死亡してから1日で丸25年となった。母親の高松由美子さん(67)は癒えない悲しみを抱えながら、学校や刑務所で命の大切さ、遺族の思いを伝える講演を重ね、多くの犯罪被害者や遺族を支援してきた。事件からの歩みを「息子の存在を眠らせたくない、同じ思いを誰かにさせたくない」という一心だったと振り返る。(篠原拓真)

「更生させんかったら」

 事件は97年8月23日の深夜に起きた。聡至さんは中学時代の非行から抜けだし、県立播磨農業高校(加西市)に入学。自宅農地でのブドウ栽培やアイガモ農法を思い描き、将来の希望にあふれていた。

 元同級生3人を含む当時14~16歳だった少年10人は聡至さんを呼び出し、自宅近くの神社で暴行した。殴る蹴るだけではなく、鉄パイプや角材での殴打、バイクで体をひくといった行為にも及んだ。翌朝、由美子さんが病院で対面した聡至さんの顔は腫れ上がり、どす黒く変色していた。暴行を受けたのは、グループとの付き合いをやめたのが気にくわなかったからという話も聞いた。

 親の責任として聡至さんと何度も話し合い、立ち直らせたところだった。由美子さんは「更生させんかったら、命を失ってなかったのかも」と自分を責めた。今も思い返すと、涙が浮かぶ。

「気持ち伝える場がもっと必要」

 「右も左も分からず、考える暇もなかった」。事件について落ち着いて考える余裕がなかったからこそ、そばで支えてくれる人が必要だと思った。少年犯罪の被害者と家族のサポートに関わるようになり、公益社団法人「ひょうご被害者支援センター」の設立に携わった。小中学生や少年院、刑務所の収容者向けの講演活動も続ける。

 最近は、子どもたちに精神的なショックを与えないよう、学校での講演は表現などをやわらげ、事件を直接的に語ることが難しくなったという。それでも、「聡至の代弁者やから」と体験を語る。

 自身の事件の頃は、犯罪被害者遺族の支援施策や司法参加の制度はほぼ皆無だったという。他の遺族と一緒に声を上げ、一つ一つ充実を図ってきた。由美子さんは今、「遺族が社会の中で気持ちを伝える場がもっと必要だと思う。それがやり残したこと」と話す。

「私しかできへん」

 事件から25年。加害少年たちは大人になり、子どもを育てるようになった人もいるだろう。聡至さんは15歳当時のままで、「この子がおったらなと感じることもある」と悲しげに笑みを浮かべる。

 「ぼちぼちいろんな役割を引き継いでいかな」と打ち明ける一方、こう言葉に力を込めた。「聡至は『お母さん、もう、ええんちゃう』と言うやろうけど、講演で事件を話すのは私しかできへん。それだけは続けなあかんねん」

【兵庫県稲美町の集団暴行死事件】1997年8月23日深夜、県立高校1年の高松聡至(さとし)さん=当時(15)=が、自宅近くにある神社の境内で中学の同級生らに集団暴行を受け、9月1日に亡くなった。加害者で当時14~16歳の少年10人は傷害致死容疑で逮捕、送検され、少年審判を経て少年院に送致された。聡至さんの遺族は2000年、少年と保護者に損害賠償を求めて提訴。神戸地裁姫路支部の一審判決は保護者の責任を認めなかったが、04年の大阪高裁控訴審判決は、少年10人に加え保護者にも連帯して賠償金の支払いを命じた。

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