トラ・トラ・トラ-。太平洋戦争が始まった81年前の12月8日、日本海軍の航空部隊は米ハワイ・真珠湾攻撃の「奇襲成功」を暗号で打電した。一報を発信した指揮官機のパイロット、松崎三男さんはその後、中部太平洋で戦死する。離れて暮らす新妻の元にたくさんの手紙を残して。思いあふれる31通の「ラブレター」は、今も兵庫県宝塚市の長男宅に大切に保管されている。(小川 晶)
■「トラ・トラ・トラ」打電直前の機上
松崎さんは長野県出身。旧制上田中(現上田高)から海軍兵学校に進んだ。航空部隊に配属され、1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃当時は25歳の海軍大尉。350機を統べる指揮官、淵田美津雄さんが乗る艦上攻撃機の操縦員を務めた。
淵田さんが戦後に出版した著書には、「トラ・トラ・トラ」を打電する直前、機上で交わされた松崎さんとのやりとりが記されている。
米軍に攻撃を察知されている気配はなく、淵田さんが「どうやら奇襲で行けそうだな」と尋ねると、松崎さんは「奇襲のように思います」と同調。ハワイに接近した際は「隊長、真珠湾が見えます」と息をはずませて淵田さんに報告したという。
■新妻との短かった同居生活
真珠湾攻撃で日本海軍は大きな戦果を挙げ、松崎さん操縦の指揮官機も無事に帰還した。その後、三重県・鈴鹿の基地に配属された松崎さんは、近くに滞在していた幸子(ゆきこ)さんと出会い、42年11月に結婚する。
しかし、一緒に過ごせる時間は短かった。翌43年7月、松崎さんは千葉県・館山の基地に転属。鈴鹿にとどまった幸子さんとの間で文通が始まる。
幸子さんの手元に積み上がっていく、松崎さんからのはがきや封書。愛情のこもった文面は、松崎さんが12月に戦死するまで間を置かず届き続けた。
■「お前の夢を見た」
【8月1日】静かに御身に之を書くとき楽しき今迄(いままで)の結婚生活が思い出されて御身の写真を抱き締め度(た)い位である。
【8月7日】夜一人部屋に帰って御身の写真を見るとき非常に会いたく思う。御身は常に我が胸中に在って手を一杯差し伸ばして見ている。
館山に移った直後の松崎さんの手紙は、寂しさの吐露が目立つ。幸子さんも頻繁に返信していたようで、「士官室へ帰るのが唯一の楽しみである。御身からの便が待っているからである」「今日は(手紙が)来なかったので非常に淋しく感じた」などの記述がある。
【9月1日】九州へ出張して其の日に帰って来た。途中鈴鹿の上空を飛んだ 此の下で二人の楽しい生活が営まれたと思うと一寸着陸したくなった。
【9月5日】うとうとやって居るとお前の夢を見た。どんな夢だと思う。何時もお前がやって見せるオチョボの顔をして笑っている夢だった。
■妊娠の報に喜び「無駄死にはせぬ」
この直後、幸子さんから速達が届く。妊娠を伝える一報だった。松崎さんは「二人の愛の結晶が出来たのだもの こんな嬉しい事は又とあろうか」などと喜びを表現した。
9月半ば、松崎さんの部隊は千島列島方面へ転出し、北方の警戒任務に就いた。報告の手紙では、具体的な場所や戦況に触れていない。ただ、「無駄死にはせぬから安心してくれ」とあり、緊迫感の高まりがうかがえる。
【10月5日】お前から貰った手紙を整理して一冊の本にした。始めからもう一度読んで見ると非常に懐かしい。淋しくなったら読む事にしよう。
眼をつぶってお前の事を偲ぶ時、俺は何時も楽しくなる。楽しい思い出ばかりだ。おい幸子と呼べば直ちに返事でもしそうであるが如く思われる。世間を傳(つた)って二人はしっかりと結ばれているのだ。
【10月12日】戦地に居ると書度(かきたい)事も書けぬのが不便である。生れでる子供の為にいい名前を目下考慮中であるが、仲々むずかしいものである。最初に考えた名前が一番いい様に考える。
男の子 洋祐
女の子 洋子
更に良い名が考えられたら通知する。急ぐ事はない。
■本人が「検閲」、1カ所の墨塗りもなく
わが子の名前を思案する中で、松崎さんが「検閲」の煩わしさに触れている。兵士が送る手紙の内容を上官が事前に確認し、不適切と判断された部分は墨塗りにされてしまう。
しかし、松崎さんの手紙には1カ所もない。率直な愛情表現などは生への執着とも捉えられかねないが、将校の立場が物を言ったらしい。現に幸子さんへの手紙の一部は、松崎さん本人が検閲印を押している。
■「可愛い妻よ。妻という字は…」
【11月20日】時にはお前に逢いたくなるがそれも今の処では当分の間望がない。今は精魂の上に於いて心の中に於いて二人は益々結ばれて行く事であろう。
可愛い妻よ。妻という字はどれだけ親しく響く字であろう。
31通目。これが松崎さんの絶筆となった。
千島列島方面から中部太平洋のマーシャル諸島へ移り、12月5日に艦上攻撃機6機を率いて出撃。全機戻らず、戦死と認定された。
■終戦、99歳まで生きた妻の思いは
松崎さんの戦死から4カ月後、幸子さんは長男を出産する。「洋祐」。夫が挙げていた名を付けた。
45年8月15日、終戦。幸子さんが当時を振り返る晩年の日記が残っている。
「航空隊の若い人達が(松崎さんの)遺影の前で涙をこぼしていた。反面空襲に怯える事から解放されホットした気分になる」
「松崎三男の死はなんだったのだろう。思いが走馬灯のようにくるくる廻る。無邪気にニコニコ笑っている洋祐の姿に涙する。でも涙している時ではない。この子がいる限り一人前の社会人として育てなければと松ちゃんの遺影に誓う」
戦後、幸子さんは再婚することなく女手一つで洋祐さんを育て、2016年に99歳で亡くなった。日記には、人生を総括するような記述もある。
「あんたは気の毒な人生だったと思うよという人もいたけれど、私は松崎と結婚し、洋祐という良い息子に恵まれ、現在の何不自由のない生活に幸せこの上もないと考える時もある。欲をいえばいくらでも欲が出るのが人生」
■手紙保管する息子「軍人も一人の人間」
31通の手紙は、宝塚市で暮らす洋祐さん(78)が、幸子さんの遺品整理中に確認した。戦時中の手紙といえば、勇ましい言葉が並ぶイメージがあった。写真でしか知らない父の意外な一面に触れ、少し恥ずかしくなったという。
一方で、海軍兵学校を出て、職業軍人として生きた父の印象が変わった。手紙から伝わってくるのは、妻を純粋に愛する一人の男性の姿だった。
洋祐さんが思いを語る。「軍人も一人の人間であり、平和な時代を生きる今の人と同じ感情を持っていた。そういった人が命を落とすということこそが、戦争の怖さなのだろう」
(小川 晶)
【真珠湾攻撃】1941年12月8日(日本時間)、日本軍の機動部隊が、米ハワイ・オアフ島の真珠湾の基地や米太平洋艦隊を航空機、特殊潜航艇などで急襲した。「トラ・トラ・トラ」は奇襲成功の電文。約2400人の米国人が死亡し、日本側は60人余りが戦死した。日本は米英に宣戦布告し、太平洋戦争が始まった。
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