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藤田氏の一部が吉川町周辺に移ったとみられることが確認できる兵庫県指定文化財「法光寺文書」の一部(藤田均さん提供)
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藤田氏の一部が吉川町周辺に移ったとみられることが確認できる兵庫県指定文化財「法光寺文書」の一部(藤田均さん提供)
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 兵庫県の三木・吉川の藤田さん、丹波の久下(くげ)さん、そして丹波篠山の中沢さん、酒井さん。それぞれの地域に多いことで知られるこれらの名字、広まるきっかけは承久(じょうきゅう)の乱(1221年)にあったという。鎌倉幕府と朝廷の覇権争いに端を発し、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも取り上げられたこの戦い。はるか昔、兵庫から遠く離れた場所で起こった出来事がどのように影響したのだろうか。(篠原拓真)

 承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対し、討伐の兵を挙げたことに始まる。源頼朝の妻北条政子の演説が関東の武士たちを結束させ、幕府側が圧勝した。

 姓氏研究家の森岡浩さんは、「歴史上で何度か名字が移動する時期はあるが、承久の乱は現在に影響を残すほどの大移動だった」と説明する。

 幕府は朝廷方の所領約3千カ所を没収し、功績のあった武士らを土地の管理者「地頭」に任命。西日本を中心に土地を与えた。これが関東由来の名字拡大につながった。

 森岡さんによると、当初は土地を移る武士は少なかったが、モンゴル帝国による元寇(げんこう)(1274、81年)の頃、幕府は守りを固めるため、武士たちに西日本へ移るよう命じた。

 一部の武士は赴いた先で有力豪族となった。駿河(静岡県)から安芸(広島県)に移った吉川家は、その後藩主に。相模(神奈川県)から豊後(大分県)に赴任した大友氏は戦国大名としても知られる。

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 では、兵庫県内にはどのような影響が残ったのか。

 三木市吉川町。町内最多の名字として知られているのが「藤田」だ。起源は武蔵国藤田郷(現在の埼玉県寄居町)とされる。郷土史家の藤田均さん(70)=三木市吉川町=によると、同町周辺は天皇家の荘園があり、藤田氏に与えられた。

 同乱では北条義時の息子泰時が京都に攻め入った際、後鳥羽上皇が発した降伏の院宣を藤田能国(よしくに)が読み上げたとされる。これらの功績を受け、藤田氏の一部が吉川町周辺に移ったとみられ、県指定文化財「法光寺文書」でも移住を裏付ける書状が確認できるという。

 藤田氏はその後滅ぶが、「藤田率」3割7分を誇る同町内の奥谷地区では、明治時代に名字を決める際、寺の住職が藤田氏の偉功にあやかって名字を「藤田」にすることを勧めた-という逸話が残っている。

 また、森岡さんは「丹波市の久下氏や丹波篠山市の酒井氏らも、承久の乱後に地頭として移ってきた」と紹介する。久下氏は武蔵国久下郷(埼玉県熊谷市)の武士で、同乱の後、現在の丹波市山南町の一地域にとどまった。また、武蔵国中沢郷(同県本庄市)を拠点とした中沢氏は現在の丹波篠山市大山地区に、酒井氏も関東から丹波篠山市古市地区などに移り、ともに名字が分布する。

 このほか、「鎌倉殿の13人」に登場する足立遠元(とおもと)の孫遠政(とおまさ)は、承久の乱が起こる前とされるが、武蔵国足立郡(東京都足立区など)から現在の丹波市青垣町に地頭として赴任。関係が深い同町遠阪地区は「6割が足立姓」とも伝わる。

 11日の放送で、三浦義村とともに登場した御家人の長沼宗政は、摂津国や淡路国の守護などに任命されるなど、兵庫県と坂東武者との関係は他にも。森岡氏は「名字には、先祖がどこでどういう暮らしをしていたかが込められている。名字のルーツから一族の過去に思いをはせてほしい」と話した。

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