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阪神・淡路大震災直後に医療関係者らのホテルシップとなった日本クルーズ客船の「おりえんとびいなす」=神戸港(神戸観光局提供)
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阪神・淡路大震災直後に医療関係者らのホテルシップとなった日本クルーズ客船の「おりえんとびいなす」=神戸港(神戸観光局提供)
震災当時、医療関係者らのホテルシップとなった客船に乗り組んだ由良和久さん=2022年12月23日、神戸市中央区東川崎町1
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震災当時、医療関係者らのホテルシップとなった客船に乗り組んだ由良和久さん=2022年12月23日、神戸市中央区東川崎町1

 阪神・淡路大震災では、全国から多くの医療従事者やインフラ企業の社員らが救命、復旧のため神戸に集まった。当時、支援者が寝泊まりし、生活する場となったのが、神戸港に停泊した民間のクルーズ船やカーフェリーだった。余震の恐れもある中、崩れた岸壁にとどまり、復旧を下支えした。あれから28年。日本クルーズ客船(大阪市)の1等航海士として約2週間、医療関係者らの宿泊船に乗務した由良和久さん(61)=兵庫県宝塚市=は「疲れ果てた支援者の姿を見て、被害の大きさを実感した」と振り返る。

 1995年1月17日、休暇中だった由良さんは、宝塚の自宅マンションで激震に襲われた。当面の乗務予定はキャンセルとなり、自宅待機となったが、同社は神戸市などからの依頼で修理予定などの船を支援に回すと決定。由良さんは同22日ごろ、家族を自宅に残して神戸港に向かった。

 三宮の市街地を歩くと、ビルがあちこちで倒れ、遠くには黒煙も見えた。港では岸壁が崩れ、波打ち、船を固定するための「係船柱」も外れそうな状態。「見慣れた神戸港の変わりように現実とは思えず、夢じゃないかと疑った」という。

 乗り組んだのは、旅客定員約600人のクルーズ船「おりえんとびいなす」。同20日~2月1日、個室や大部屋に医療関係者ら延べ約千人が泊まった。

 航海中はショーや映画上映でにぎわうホールには、缶詰やペットボトル、医薬品が入った段ボール箱が積まれていた。由良さんの主な業務は、大阪や四国などから船で届く支援物資の受け入れ調整や管理。余震があれば沖に避難できるよう、操舵(そうだ)室では24時間出港できる態勢をとり続けた。

 印象的だったのは、異様なまでの船内の静けさだった。被災地との行き来で常に人の出入りがあったが、支援者らは現場から戻っても食事と入浴を済ませてつかの間の睡眠をとり、また現場に戻るという繰り返し。「クタクタで帰ってこられる姿を見て、被害の深刻さが身に染みた」という。

 停泊した他の船では、被災した高齢者に浴場を開放した例もあった。燃料さえあれば船は自家発電が可能なため、「停電で街が真っ暗な中、船だけが煌々(こうこう)と海に浮かぶ光景を鮮明に覚えている」と振り返る。

 再開したクルーズでは、国内外を問わず寄港先の港湾関係者から「神戸は大丈夫か」「何かできることはないか」と気遣われた。「神戸を心配してくれる気持ちがありがたかった」。由良さんにとって震災後の航海は、感謝と復興を伝える旅になったという。

   ◇

 兵庫県や神戸市は震災発生直後、船舶の運航会社に船の提供を要請。市港湾整備局(現港湾局)がまとめた復興記録によると、1月20日以降、16隻の客船やカーフェリーが神戸港に停泊していたとされる。神戸港以外に、阪神間の港などにも支援船が駆け付けた。

 神戸大名誉教授の井上欣三さん(76)=海上交通工学=によると、阪神・淡路大震災は船が本格的に災害支援に利用された初めての例。「一度に大量の荷物を運べて生活機能も備わる船は支援に有効と気付くきっかけになった」という。

 東日本大震災でも主に日本海側の港で、支援物資の輸送に船が活躍。認識が広まったことで、国も災害時の船舶活用について専門家による検討会を開いて議論したが、民間船借り上げは事業への影響などハードルが高く、仕組みづくりには至っていないという。

 日本では今後、南海トラフ巨大地震や首都直下地震が想定される。井上さんは「民間船も含めてどの船がどのように使え、行政であればどこが有事の際のかじを取るのか。整理してマニュアル化しておくべきだ」とした。

【特集ページ】阪神・淡路大震災

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