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ミャンマーで医療コーディネーターとして働く河野朋子さん(ジャパンハート提供)
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ミャンマーで医療コーディネーターとして働く河野朋子さん(ジャパンハート提供)
ミャンマーで医療コーディネーターとして働く河野朋子さん(左から2人目、ジャパンハート提供)
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ミャンマーで医療コーディネーターとして働く河野朋子さん(左から2人目、ジャパンハート提供)
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NPO法人「ジャパンハート」が1月、ヤンゴンに開設したクリニック(ジャパンハート提供)
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NPO法人「ジャパンハート」が1月、ヤンゴンに開設したクリニック(ジャパンハート提供)

 2021年2月1日にミャンマーで起きたクーデターから、きょうで2年になる。現地の医療が機能しなくなる中、国際医療NGOとして活動するNPO法人「ジャパンハート」(東京都)が1月、最大都市ヤンゴンに新たなクリニックを開いた。現地で準備に奔走した兵庫県加古川市出身の看護師、河野朋子さん(47)は「ミャンマーの未来のために、外国人の私たちができることを少しずつ進めたい」と話す。

■「当時の雰囲気は今と違っていた」

 同法人は04年からミャンマー中部のワッチェ村にある「ワッチェ慈善病院」を拠点に活動している。兵庫県立こども病院などの看護師だった河野さんは05年4月、国際医療を志してミャンマーに渡り、ワッチェ慈善病院で働き始めた。

 一時帰国した後、08年のサイクロン被害に対応するため再びミャンマーへ。それから15年間、日本と現地をつなぐ医療コーディネーターを担ってきた。

 20年からの新型コロナの影響は大きく、夜間は外出禁止令が出た。

 それでも「当時の雰囲気は今と違っていた」と河野さん。コロナの治療を担う「コロナセンター」の開設費用を企業が寄付し、多くの医療従事者もボランティアとして同センターで働いた。河野さんは「医療環境が十分でなくても、国民全体でコロナを乗り越えようとしていた」と振り返る。

■クーデターで一変

 だが、外出禁止令が続く中で起きたクーデターで雰囲気は一変した。

 反発した医療従事者が「今の政府の元では働けない」と職場を離れ、センターは機能しなくなった。

 デルタ株が流行すると、自宅で亡くなる感染者が相次ぎ、葬儀場には長蛇の列ができた。河野さんらも薬などが手に入らなかった。

 日本の医療チームも新型コロナとクーデターの影響で、長らくミャンマーに入ることができなくなった。

 ワッチェ慈善病院などで手術が再開できたのは昨年7月。その後、国公立病院の一部も日本の医療チームを受け入れるようになったが、「安全を保証できない」と日本から派遣が見送られるケースが多いという。

■ノーレイン、ノーレインボー

 今も国公立病院では以前の半分以下しか患者を診ることができていない。海外企業の撤退などで失業者があふれ、物価も上がって生活が苦しい中、治療を諦める住民も多いという。

 2年がたっても医療崩壊が続く中、同法人は新たにヤンゴンに「レインボーブリッジクリニック」を設立。「ノーレイン、ノーレインボー(つらいことの後はきっとよい事がある)」ということわざが名前の由来で、厳しい状況のミャンマーで医療を通じて幸運の橋渡しを目指す。都市部にいながら医療を満足に受けられない人を診療し、専門的な治療が必要になればワッチェ慈善病院につなぐ。

 河野さんは「以前は医療者と政府が協力し、ミャンマーでできなかった治療ができるように医療を発展させてきた。そんな状況に戻ってほしい」と話す。

東播
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