総合 総合 sougou

  • 印刷
公太さんら生徒14人の名前が刻まれた慰霊碑をなでる丹野祐子さん=宮城県名取市閖上西1
拡大
公太さんら生徒14人の名前が刻まれた慰霊碑をなでる丹野祐子さん=宮城県名取市閖上西1
かさ上げ工事を終え、新しく生まれ変わった閖上の町=宮城県名取市閖上から
拡大
かさ上げ工事を終え、新しく生まれ変わった閖上の町=宮城県名取市閖上から
津波復興祈念資料館「閖上の記憶」。地元住民らが運営し、公太さんが所属した男子バレーボール部のユニホームなどを展示している=宮城県名取市閖上東3
拡大
津波復興祈念資料館「閖上の記憶」。地元住民らが運営し、公太さんが所属した男子バレーボール部のユニホームなどを展示している=宮城県名取市閖上東3
東日本大震災を伝える施設「閖上の記憶」=宮城県名取市閖上東3
拡大
東日本大震災を伝える施設「閖上の記憶」=宮城県名取市閖上東3

 東日本大震災は11日で発生から丸12年になる。長男を亡くした宮城県名取市の女性は、あの日の一言をいまも悔やむ。「津波なんて来ないから。息子にそう言ってしまったんです」。繰り返す災害に自身の過ちを生かしてほしいと願い、語り部を続ける。街並みは変わっても、一緒に生きた場所で。そして兵庫でも。

いまも悔やむあの日の一言

 仙台湾に面し、平野が広がる名取市閖上地区。津波で住民の1割に当たる約750人が犠牲になり、震災で最も被害が集中した地区の一つだ。

 沿岸にある津波復興祈念資料館「閖上の記憶」代表の丹野祐子さん(54)は、閖上中学校1年だった長男公太さん=当時(13)=を亡くした。

 2011年3月11日は同じ中学で3年生だった長女の卒業式だった。祐子さんは式を終えて長女と公民館で謝恩会のさなか、午後2時46分の揺れに襲われた。

 すぐ近くの自宅を見に行くとテレビはつかず、冷蔵庫からは食品が散乱。水も出ない。「『晩ご飯、どうしよう』。それがまず頭に浮かんだことでした」

 余震の中で公民館に戻ると、建物前のグラウンドに約100人が避難していた。その中に公太さんもいた。卒業式を終えて友だちの家で遊んでいた。

 携帯電話の画面には津波警報が表示されていたが、公民館は海から1キロ以上離れている。祐子さんもまわりの人たちも、あまり気にしていなかった。

 公太さんと会ったとき、祐子さんは一言、「津波なんて来ないから」。そう声をかけた。大勢の人と一緒にいる安心感があった。

 だが、地震から1時間6分後、事態は急変する。

 誰かの叫び声を聞いた。「津波だ! 逃げろ!」。見上げると、寺の本堂の上に砂煙が上がっていた。とっさに隣にいた長女と公民館の2階へ。階段を上り終えたとき、黒い波が足元に迫っていた。

残したかった名前

 公太さんの遺体が見つかったのは2週間後だった。

 その年の初売りで買った黒いダウンジャケットは脱げてしまって、がれきの中から発見された。公民館のグラウンドから走って逃げる途中で津波に巻き込まれたらしい。

 「見つかっただけでほっとした。よくぞ出てきてくれたって。わが子の遺体が見つかって喜んだ。そんな喜び方がこの世にあるのかって思いますよね。でも、行方不明者が多い中では、そんな状況でした」

 祐子さんはその後、生徒14人が犠牲になった閖上中の遺族会代表となり、支援者とともに慰霊碑の建立に力を注いだ。「名前は親があげた最初のプレゼント。だから残したかった」。閖上中の閉校後は、新しくできた閖上小中学校の横に場所を移して記憶をつなぐ。

 「はやく逃げろ。そう言ってやれなかったから息子が亡くなった。そう思ったら黙っていられなかった」

 語り部として、阪神・淡路大震災を経験した兵庫県でも講演を重ねてきた。

 神戸・東遊園地にあるガス灯「1・17希望の灯り」も訪れた。阪神・淡路で家族を亡くした男性とも知り合い、教訓を伝える大切さを話し合った。「兵庫の人たちが、語ることの背中を押してくれた」と話す。

 7年間の仮設住宅暮らしを経て、かさ上げされた閖上の居住区域に自宅を再建した。2階に設けた公太さんの部屋には震災後、毎週欠かさず買い続ける週刊少年ジャンプの本棚がある。

 「勉強のできない息子だったけど、小学4、5年くらいからジャンプを読むのを楽しみにしていた。最初にページをめくるのは息子であってほしいから、私は読んだことないんです。もうやめたいと思うんだけど、続きが気になるだろうと思うとやめられなくて」

 並べたジャンプは部屋の壁一面を埋めた。

「たまには帰っておいで」

 新型コロナウイルス禍で、年間1万人以上いた「閖上の記憶」の来館者総数は4千人程度に落ち込んだ。それでも、最近は兵庫をはじめ各地から修学旅行生の姿も目立つ。

 「思い出したくないときもあります。でも、忘れられることのほうが怖い。町がきれいになって、息子がここに生きていたことを誰も覚えていなくなるんじゃないかって」と祐子さん。「いまは言葉を重ねないと、ここにかつての町があったことさえ分からない。あの日を語る必要は、これからにこそあるんです」

 11日には「閖上の記憶」前で追悼の集いを開く。参加者らが思いを記した風船に願いを託す。「たまには帰っておいで」。祐子さんは今年も、公太さんにいつものメッセージを書いて大空に放つ。

東日本大震災
総合の最新
もっと見る
 

天気(12月1日)

  • 12℃
  • ---℃
  • 10%

  • 12℃
  • ---℃
  • 60%

  • 12℃
  • ---℃
  • 10%

  • 12℃
  • ---℃
  • 20%

お知らせ