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脱線し、マンションに激突した快速電車の車両=25日午前11時37分、尼崎市潮江4
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脱線し、マンションに激突した快速電車の車両=25日午前11時37分、尼崎市潮江4
意識不明状態だった順子さん=2005年5月中旬ごろ、大阪市内の病院(提供)
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意識不明状態だった順子さん=2005年5月中旬ごろ、大阪市内の病院(提供)
2023年4月、48歳になった鈴木順子さん=兵庫県西宮市
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2023年4月、48歳になった鈴木順子さん=兵庫県西宮市

 乗客106人が死亡した2005年の尼崎JR脱線事故で、兵庫県西宮市の鈴木順子さん(48)は脱線した快速電車の2両目に乗っていた。ヘリコプターで病院に運ばれるも意識不明の重体が続いたが、およそ1カ月後に目を開く。「私は生きてる」。そして家族とともに回復の道のりを歩んできた。

■事故から2カ月

 鈴木順子さん(30)=当時=は大きく目を開き、足を動かすようになった。「動いたっ!」。家族はそのたび、声を上げる。たまらなくうれしい。

 6月24日。医師が家族に、感染予防のためのビニール手袋を「もうはめなくてもいい」と告げた。家族はようやく順子さんの肌のぬくもりを直接、感じることができる。

 あったかい手、あったかいほお。母親のもも子さんは、順子さんの左ほおに自分の右ほおをくっつけ、全身で抱き締めるように右手を背中に回す。左手でゆっくりと足をさする。マッサージをすると、気持ちよさそうな顔で応えてくれる。

 「順ちゃん、ねえ、順ちゃん」。自宅の庭に咲くアジサイの写真を見せ、好きな音楽のCDをイヤホンで聴かせる。絵本の読み聞かせをする。何かが響くかもしれない。そう願って。

 ある日、順子さんが写真を目で追う。浜辺で犬とたたずむ女性の絵を見せてみる。もも子さんが「順子に似てるね」と言うと、手が動く。「お母さんやで、分かったらまばたきして」と声をかけると、パチンとまばたきをする。

 6月29日、家族が病室に行くと、順子さんにつながれていた医療機器がすべて取り外してあった。7月1日、ストレッチャーに乗って、もも子さん、父親の正志さんと一緒に散歩に出かける。日差しを浴びるのは、いつ以来のことだろう。

■チーム「順子」

 7月に入り、順子さんは西宮の自宅近くの病院に転院することになった。季節は春から夏に変わっていた。7月22日朝。事故から約3カ月間過ごした大阪市都島区の市立総合医療センターを出発する。医師や看護師ら、多くのスタッフが見送ってくれた。

 「ありがとうございました」。救急車に同乗した姉の敦子さんが窓ごしに何度も頭を下げ、手を振る。死のふちから生還した場所との別れ。家族の張り詰めていた気持ちが一気にゆるむ。母親のもも子さんは事故以来初めて、父親の正志さんの胸で声を上げて泣いた。

 事故の乗客を対象にした新聞社のアンケートが届く。順子さんに代わって、もも子さんがペンを握り思いをつづる。

 「3カ月間入院していて、日常的に生と死の背中合わせの日々が繰り返されていることを、目の当たりにしました。私自身も含めて、短い人生で本当に大切なものは何なのか。日本中が考えるきっかけにしてほしいです。あの惨事が無駄にならないようにしてほしいと思います」

 8月1日。大阪に住んでいた姉の敦子さんが、家族とともに実家のすぐそばに引っ越してくる。正志さんが順子さんのおむつを換える。「なんだか順子を囲むプロジェクトチームみたいになってる」

 もも子さんの顔が自然に笑顔になる。「みんな、事故で家族というものを突き付けられた。順子が家族を引き寄せてくれた」

 順子さんが小さいころ、家族の間ではけんかが絶えなかった。もも子さんは仕事と3人の子育てに追われ、子どもたちとちゃんと話ができなかった。大人になってからもよくぶつかった。「お母さんは嫌い」。そんな言葉を浴びせられた。

 今、目の前にいる順子さんは赤ん坊のようにかわいらしいあくびをする。冗談を言うと笑ってくれる。ぎゅっと手を握ってくれる。事故後の回復が、まるで成長しているように思える。「本当、いとおしい。母親の幸せを感じる。母親として受け入れてもらえたように思える」

 8月末、順子さんの祖母が93歳で息を引き取った。不思議なことに、その日を境に順子さんの回復が進み始める。家族は命のつながりを思わずにいられない。

 ある日、もも子さんがうれしそうに言った。「リハビリの先生が順子のおっぱいを触っちゃったら、嫌っていうふうに手で払いのけたんです」。反応が大きくなってきた。

■「お母さん」

 順子さんは事故現場から病院に搬送されたとき、「99%助からない」とされた。残る1%から、命をつないできた。

 7月末、西宮の病院でリハビリが始まった。母親のもも子さんは、遺伝子研究の本にあった「愛は脳を活性化する」という言葉を支えに、病院に通う。そして呼びかけ続ける。「順ちゃん、奇跡起こそな」

 8月のお盆のころ、順子さんの友人が病室を訪れた。「来るのが遅くなってごめんね」。生まれたばかりの赤ちゃんが一緒だった。順子さんの目から涙がこぼれるのを見たもも子さんは「この子はもう、分かってるのよ」と確信する。

 9月2日、医師から吉報が伝えられた。「手を握ってと言うと、ちゃんと握り返してくれます」

 9月17日、順子さんがうめき声を漏らす。それを聞いたもも子さんは恐る恐る、「ねえ、お母さんて言って」と促してみる。

 「お母さん」

 消え入りそうな、か細い声。突然のことに、もも子さんは何が何だか分からなくなる。

 しばらくしてわれに返る。「事故の朝、『行ってらっしゃい』という言葉を聞いて以来の順子の声。こんな声だったな」。病院スタッフと抱き合う。やっぱり涙が止まらない。

 厳しいリハビリに取り組む日々。理学療法士らに体を支えられ、立ったり座ったり。リハビリの途中、順子さんが声を発する。「痛い。やめて!」「なんでー」。一点をにらみつけ、うめき声を出す。「なんでこんなことに…」。そばで見ていて、もも子さんはたまらない気持ちになる。

 「リハビリでつらそうな順子を見ると悲しくなるけど、生きてくれたからこそ、回復を喜ぶことができるんですよね」。自分に言い聞かせるように話す。

 10月、11月。順子さんは少しずつ言葉の数を増やしていった。ときに大声で歌うことがある。もも子さんが「どんぐりころころ」と歌うと、「どんぶりこー」と続ける。

 「疲れた?」と聞くと、「疲れてない」と答える。

 父親の正志さんに向かって「おっさん」と繰り返す順子さんに、「おっさんばかり言わんと、おばはんって言うてみてよ」と、もも子さんが声をかける。「おばはーん」。人懐っこい声と笑顔が返ってくる。

 今日より、明日。少しずつ良くなっている。「明日はあるのか」とおびえる日々をくぐり抜け、家族はどうにか「明日のこと」を考えられるようになった。

 このころ家族は事故後、怖くて何も動かせなかった順子さんの部屋で、ようやく順子さんが使っていたものに触れることができた。

(中島摩子)

尼崎JR脱線事故
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