「99%助からない」。救急搬送時の医師の見立てを覆し、今日まで彼女は生きてきた。兵庫県西宮市の鈴木順子さん(48)。2005年4月25日、JR西日本の快速電車が脱線してマンションに激突し、乗客106人が死亡した事故で、瀕死(ひんし)の状態に陥った。当時30歳だった彼女と家族の「あの日」とは-。
■30歳の日常
脱線事故の1年前の春。鈴木順子さんは新たな挑戦を始めていた。武庫川女子短大を卒業後、派遣社員などをしていたが、4月から設計技術(CAD)の講座に通った。パソコンを使ったデザインが得意で、テクニカルイラストレーターとしても活動していた。
休暇を利用してスキューバダイビング、友人と過ごす楽しい時間、お気に入りの音楽。30歳の日常が流れていた。
あの日、05年4月25日の朝。順子さんは仕事のため家を出る母親のもも子さんをパジャマ姿で見送り、「いってらっしゃい」と2回、声をかけた。
数日前、順子さんはもも子さんにこんなことを話していた。「お母さん、私の人生、これからどんな人生やろな。お母さんの年まで生きるとしたら…」
母を送り出した順子さんは大阪市内のCAD講座に行くため、身支度を始める。手作りのお弁当をかばんに入れて真珠のネックレスを付け、ミニバイクでJR西宮名塩駅へ。
名塩駅から宝塚駅に出て快速電車に乗り換え、前から2両目に乗り込む。午前9時3分、電車が宝塚駅を出発、尼崎市内へ。そして午前9時18分ごろ、レールを外れて大きく傾き、マンションに激突した。
■真珠のネックレス
お昼のテレビニュースがJR宝塚線の脱線事故を伝えていた。職場にいた母親のもも子さんは、そのとき初めて惨事を知る。
宝塚線は夫の正志さんと次女の順子さんが利用している。急いで正志さんの会社に連絡を入れる。「出勤されています」。ホッとし、続けて順子さんの携帯電話番号を押す。つながらない。
小銭をかき集め、公衆電話から何度もダイヤルするが、結果は同じ。順子さんが通う大阪のCAD講座に問い合わせる。到着していない。
急いで自宅に帰ってテレビをつけると、ぺしゃんこになった車体が映っていた。けが人が運び込まれた病院名がテロップで流れた。関西労災病院、兵庫医大…。片っ端から問い合わせるが、いずれも「そういう方は搬送されていません」との返事だった。
「もしものこと」が頭に浮かぶ。親族から安否をたずねる電話が入り、もも子さんは「葬式の用意をして」と告げる。そして、遺体安置所に向かう。
事故現場では、懸命の救出作業が続いていた。「生存者はもういないかもしれない」。絶望的な空気が漂い始めたとき、折れて大破した2両目から女性が助け出された。「まだ息があるぞ」。順子さんだった。
口の中が割れたガラスでいっぱいになっていた。滋賀県の病院から派遣されていた医師がボールペンで口を開き、もう一本を使ってガラスの破片をかき出した。懸命の心臓マッサージ。午後3時ごろ、順子さんを乗せたヘリコプターが現場近くの中学校から、大阪市都島区の市立総合医療センターへ向かった。
もも子さんは遺体安置所に着いたものの、娘を見つけることができない。「どこにおるんやろ…」
そこへ、「白いパンツ姿で、真珠のネックレスを付けた身元不明の女性が都島の病院にいる」という情報が入る。すぐに電話をかけ、対応に出た医師に特徴を伝える。「B型で髪の毛が長くて、歯を矯正しているんです」
「その方かどうか分かりませんが、一度来てください」
病院の外は雨が降っていた。もも子さんは両手を消毒し、集中治療室に入る。一目で分かった。人工呼吸器を付け、チューブにつながれた順子さんがいた。
「あー、おったわ」
■集中治療室
順子さんは「生死の境」にいた。
ひ臓摘出などの手術を受け、集中治療室のベッドに横たわっていた。頭がい骨には脳圧を測るセンサーが埋め込まれている。
対面を終えた家族は医師の説明を受ける。脳挫傷、ひ臓損傷、肺挫傷、腹腔(ふくこう)内出血、出血性ショック。医師は「救出があと少し遅れたら亡くなっていました」と説明した。特に脳の損傷が激しい。「お父さん、お母さんのことが分からなくなるかもしれません。覚悟しておいてください」と告げた。
一夜明けて4月26日、医師が言った。「3日間がヤマです」。母親のもも子さんはふと思う。「棺おけで対面した人もいる。息があるうちに会えて、まだ幸せなんかな」
西宮の自宅に戻ると、台所にかぼちゃの煮物が残っていた。順子さんが作ったものだった。家族で「これが最後の手料理になるかもしれん」と話す。はしを伸ばして、ウンッと飲み込む。涙が止まらない。
もも子さんと父親の正志さん、姉の敦子さんら家族は連日、病院に詰めた。ハラハラしながら脳圧を示すモニターを見守る。正常より高い数値になると集中治療室に警報音が響く。厳しい現実を前に、望みをつなぐのがつらく感じる。
5月5日。医師が「処置はすべて施しました。あとは本人の生命力です」と静かに言った。「明日また、順子の顔を見られるだろうか」。家族みんなで千羽鶴を折り、精神安定剤を飲む日が続く。
しばらくして、事故当日に順子さんが持っていた白いかばんと服が戻ってきた。かばんは4月12日の誕生日に、もも子さんがプレゼントしたものだった。血が付いて、中はガラスの破片だらけだった。
いったんはごみ箱に捨てたが、「目が覚めたとき、『かばんはどこ?』と言うかもしれない」と思い直して保管することに。希望と絶望を行ったり来たりする日々。順子さんの友人や近所の人から、激励の寄せ書きや千羽鶴が次々届いた。病院から疲れて帰宅すると、玄関先に夕食のおかずが差し入れされていたこともあった。
みんなが回復を信じていた。しかし、順子さんは事故から20日あまり、ベッドの上でぴくりとも動かなかった。
■眠り姫
順子さんは動かない。でも、とても安らかな表情をしていた。「事故前は仕事が忙しかったり、アトピーに悩まされたりして、熟睡できていないようだった。今はこれまでの寝不足を解消しているよう。まるで眠り姫みたい」。そんなふうに、母親のもも子さんは感じていた。一方で「このまま棺(ひつぎ)に入るのか」とも思えた。
5月18日、もも子さんが順子さんの顔を見つめていると突然、腹部がボコっと盛り上がる。口元がゆがみ、目に涙が光っている。しゃっくりとあくびだった。動いたー。「生きようとしてるんや。この子の命に賭けよう。私も頑張って付いていこう」
この日、事故後、ずっと病院で待機していたJR西日本の男性社員を初めて集中治療室に入れる。「申し訳ございません、では済みません」。順子さんと対面した社員は、そう言って深く頭を下げた。
5月20日、社員から連絡を受けたJR西日本の垣内剛社長=当時=が病院を訪れた。もも子さんは、用意していた垣内社長への手紙を渡す。「順子が必死に生きようとしている姿を、脳裏に焼き付けてください」と伝えたかった。
ベッドの周りを、垣内社長と病院スタッフ、家族が囲む。「JRの垣内です」。静まりかえった病室に声が響く。そのとき、順子さんの目が開いた。
「私は生きてる」。そう、必死に訴えるかのように。
「目、開けましたよ!」。思わぬ出来事に声が上がる。家族や病院スタッフは感極まって涙を流した。
5月24日、自力呼吸ができるようになり人工呼吸器を外す。5月29日、集中治療室を出て、救急病棟内の一般病床に移る。
6月1日、順子さんの便にガラスの破片が交じっている。家族はあらためて事故のすさまじさを知る。
6月3日、医師が言った。「目と耳は反応していると思うので、刺激を与えてください」。少しずつ、少しずつ、回復の兆候が出ていた。このころ、もも子さんは沖縄出身の歌手の曲を繰り返し聞いていた。
「人生はけしてあきらめないこと/何度でも生きること」「愛を捨てないで/一人きりじゃない」
(中島摩子)
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