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歩道橋事故の後遺症が左足に残る梶原将裕さん。大好きだったサッカーも社会人になるまではできずにいた=8日午後、明石市大蔵海岸通1(撮影・鈴木雅之)
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歩道橋事故の後遺症が左足に残る梶原将裕さん。大好きだったサッカーも社会人になるまではできずにいた=8日午後、明石市大蔵海岸通1(撮影・鈴木雅之)

■小6で遭遇し負傷、今は教員に 梶原将裕さん(32)

 大好きなサッカー。けれど、左足ではボールを思い切り蹴れない。

 明石市の小学校教諭梶原将裕さん(32)は、歩道橋事故で左足の靱帯(じんたい)を損傷した。その後遺症で足首を固定できない。

 そして今も、けがをしていないはずの「右足」が痛むことがあるという。

 あの日、小学6年生だった梶原さんは花火大会の会場に向かう歩道橋を渡っていた。一緒にいた妹が途中、同級生の有馬千晴さん=当時(9)=と小さく手を振り合い、はにかむ。弟の大(だい)さん=同(7)=と2人で大人たちの影に消えた。

 次第に人の流れが止まり、密集度が増していく。突然、大人たちが揺れ始めた。「戻れ」「下がれ」。手すりの外側であおむけに倒れた瞬間、歩道橋の壁と人の体にこめかみを挟まれた。誰かに絡まった左足が人の重みで外側にねじれていく。自分では止められない。体の中で「ポキッ」という音が聞こえた。

 どれくらいそうしていたのだろう。体の上にいた男児が抱え上げられた。起き上がると、周囲には脱げたサンダルやタオルが散乱。ふと気付くと、右足の下にベビー服があった。小さな赤ちゃんだった。頭の下には血だまり。運ばれていくのをぼうぜんと見つめた。

 翌朝、母親から有馬さんの姉弟が亡くなったことを聞いた。生後5カ月の赤ちゃんが犠牲になったことも。「僕も死んでいたかも」。命の瀬戸際に立っていたと初めて実感した。

 研究者を志していた高校3年の2学期。理系教員の減少を報じる新聞記事を読み「先生もいいかな」と興味を持った。「優しいから向いてるね」と背中を押され、小学校教員を目指した。

 ただ、周囲からは「気を使いすぎて疲れないの?」とよく聞かれる。素の自分を出し切れない何かが、胸の奥に挟まっている。

 小学校の教壇に立ってもうすぐ9年。同僚や教え子に、歩道橋事故の体験を自ら打ち明けたことはない。

 右足のうずきは、自分が赤ちゃんを圧迫したのではないかという罪悪感。生かされた命の重み。複雑に入り交じって整理が付かず、胸の中の重しとして残ったままだ。

 小学校生活で、子どもたちが口にする「死ぬ」という言葉に「簡単に言える言葉じゃない」とつい語調がきつくなることがある。

 そろそろ話す時かもしれない-。そう思うようになった自分に、改めて流れた歳月の長さを実感している。(小西隆久、有冨晴貴)

【連載】「あの日を背負って」(上)はこちら

【連載】「あの日を背負って」(下)はこちら

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