■被告になった元明石市職員
リビングの窓から明石海峡大橋が一望できる。あの歩道橋もだ。
明石市の責任者として有罪判決を受けた元市民経済部長の男性(78)は事故の翌年、市外から今のマンションに移り住んだ。
4年前に脳梗塞で倒れて体が不自由になり、現場に足を運べない。元部長は事故から丸20年となった21日、自宅のベランダから歩道橋に体を向けた。「事故を一生背負っていく」。1人、そっと手を合わせた。
大蔵海岸は、開発部長として整備に携わり、思い入れは深い。事故前年の2000年の春、市の市民生活部と経済部が統合され、初代部長に就任。花火大会と市民夏まつりを統括する立場だった。
補佐する次長が置かれ、まつりへの関与は薄まった。警察との警備計画の協議は一度も出席しなかった。ただ、素案にあった「自主警備」の文言が引っ掛かった。雑踏警備は主催者側の自主警備を原則とする-。警察に削除を求めるよう部下に指示したが、「これを書かないと花火の許可が下りない」との返答だった。
結局、元部長が折れた。「どうしてあの文言をもっと問題視しなかったのか。後悔してもしきれない」。病後、なかなか出てこない言葉を絞り出す。
あの日、商工観光課長だった男性(69)は、歩道橋から運び出される負傷者に事態の重大さを察した。意識のない高齢女性ら2人の人工呼吸を手伝ったが、息を吹き返したのかどうか。
元部長も、露店の明かりが消えた会場で、息をしない子どもの名前を泣き叫ぶ母親の声が耳に残っている。
2人は市幹部として遺族に謝罪して回った。悲痛な訴えに胸が押しつぶされるようだった。
刑事裁判で元部長や元課長ら5人が在宅起訴され、一審は有罪判決。元部長は今も「自分をトップとする構図で、市の責任や事故の原因が全て明らかにされたのか」との疑念が消えない。
2人は大阪高裁に控訴。元課長は「反感は分かっていたが、市が適切にしたことまで否定された」と目を伏せる。臨んだ控訴審でも再び有罪判決が下った。弁護士に強く勧められたが、2人は上告は断念する。「どこまでいっても、主催者の責任は免れられない」
毎夏、並んで歩道橋で花を手向けた。執行猶予期間を終えた時も足を運んだ。「多くの人生を変えてしまった罪は一生消えない」
21日。許されることのない、謝罪の気持ちを今年も伝えた。(小西隆久)
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