20代のころ、番記者として5年半追い続けたヴィッセル神戸が、ついに優勝杯を掲げた。40代になった今、掲載する記事の内容を判断したり、現場から送られてきた原稿を点検したりするサッカー担当デスクとして優勝紙面の製作に関わることになり、その巡り合わせに特別な感情を抱きながら、天皇杯決勝のテレビ中継を見つめた。
手元に、担当を離れる際にいただいた、2005年当時の在籍選手のサイン入りボールがある。三浦淳寛、栗原圭介、朴康造、坪内秀介…。現在はトップチームの強化を担う幹部や、スクールコーチとして神戸に関わる面々のサインを指先でたどりながら、クラブが紡いできた歴史にあらためて思いをはせた。
番記者となったのは00年10月、23歳の時。「ミスター神戸」と呼ばれた永島昭浩が引退し、程なくして日本サッカーの人気をけん引してきたストライカー、三浦知良の加入が決まった。その間に天皇杯で初の4強進出。入社2年目で右も左も分からないまま取材に追われ、気が付けば生活の中心にヴィッセルがあった。
資金力は乏しくとも、神戸は再起を期す日本代表経験者に着目し、01年に望月重良、岡野雅行、02年には平野孝、城彰二といった選手を期限付き移籍などで獲得。華やかさを増したが、それでも2桁順位が定位置で、経営不振が続いた。
03年末、三木谷浩史会長率いるクリムゾンフットボールクラブへの営業譲渡を報じた際、資金力アップにより即戦力の大物、若手を獲得し、下部組織の環境整備が可能になると書いた。記事は「神戸は必ず強くなる」というクラブ幹部のコメントで締めくくっていて、近い将来、現実になるだろうと考えていた。
04年には元トルコ代表のイルハンがやって来た。しかし、けがで出場わずか3試合に終わり、起爆剤にはならなかった。担当記者として最後に見たのは、05年11月20日の大宮戦、初のJ2降格が決まった試合。静まりかえり、空調の音しか聞こえないスタジアムで、選手はピッチにうずくまり、サポーターは泣いた。シーズン途中にフロントの顔ぶれが変わり、「血の入れ替え」と称してコーチ陣、選手が大幅に入れ替わった年。大改革は痛みを伴い、チームは一体感を失ったまま、浮上の兆しを見せることなく落日を迎えた。
昨季以降の神戸も「血の入れ替え」を経て歩みを進めてきた。スペインの名門バルセロナとのパイプを強固にし、欧州トップを極めたサッカースタイル、育成手法を採り入れ、元スペイン代表のイニエスタ、ビジャら世界一を知るスタープレーヤーを獲得。05年と違うのは、監督は変われど、掲げたポゼッションサッカーの大枠を変えなかったこと。長いシーズンで勝ちを拾い続ける力はまだなくても、指針に沿って集めた選手がかみ合った時の爆発力を示し、Jリーグに新風を吹き込んだ。春にリージョ監督が電撃辞任した時は「またか」と思ったが、過去の苦い教訓が少しでも生かされたのだとしたら感慨深い。
03年末の営業譲渡報道のさなかに生まれた長女はもう高校生になり、あの頃、血気盛んに神戸をもり立てていた土屋征夫、播戸竜二が今季、ユニホームを脱いだ。52歳で再びJ1返り咲きを決めた「背番号11」は例外として、随分長い時間がたったな、というのが実感だ。と当時に、タイトルという勲章を加えたチームの未来を想像し、ワクワクもしている。
サポーターや、かつて在籍した選手、元クラブスタッフらも、SNSで次々と現地から祝福の投稿をしている。新たな聖地で、新たな歴史の扉が開かれる瞬間を目の前で見たかったというのが本音。だけど、現担当記者の代打として、今季一度だけ原稿を書いたアウェー広島戦では6失点の大敗を喫していたから、行かなくて良かったんだと自分に言い聞かせている。
「役者はそろった」。決勝の試合前、実況のアナウンサーが発した言葉が誇らしかった。神戸もそう言われる時代が来た。大勢のサポーターが肩を組んで波打ち、声をからす姿は圧巻だった。優勝紙面のイメージを膨らませ、現地で取材中の記者からの連絡を待ちつつ、この原稿を書いている。人影まばらな元日の編集フロアで、キーをたたく指先に感謝を込めて。=敬称略=
(小川康介)
 
											
											
											
											
											






