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安全は築けるか ー検証・JR西日本

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 「言い過ぎじゃないか」。あるメモが、JR西日本の社内で波紋を呼んだ。社長に就任する山崎正夫が書いた幹部社員らに対する訓示の原案だった。

 二月一日の社長訓示。報道陣も見守る中、山崎は幹部らに問いかけた。

 「阪神・淡路大震災からの早期復旧など成功体験を積み重ねて、序列や上下意識が形成されていなかったか。内部論理を優先して独り善がりになっていなかったか-」

 これまでJR西が自負し続けてきた国鉄の分割民営化。原案よりはややトーンを抑えたが、その陰の部分に初めて切り込んだ発言だった。

 技術畑一筋の山崎は、JR西の常務から子会社に出向し、尼崎の脱線事故後に異例の本社復帰を果たした。

 訓示直後、山崎は一部の本社幹部を集め、再び向き合った。非公開のこの席で、JR西の体質について、訓示以上に率直な言葉で語りかけた。「現場にやらせるという意識では困る」

 ミニ国鉄。JR西はそう呼ばれて一九八七年に誕生した。高いローカル線比率、私鉄との競争。幹部OBは振り返る。「本当は体力のない会社なのに、体力があると社員が勘違いして慢心が芽生えた。そのきっかけが阪神・淡路大震災だった」

      ■

 震災翌日の一九九五年一月十八日。JR西の社長井手正敬が会見で「二-三カ月で仮復旧する」と宣言する傍らで、同社幹部は唇を震わせていた。

 午前の緊急役員会。井手は「三カ月」の早期復旧にこだわった。「無理です」。進言する幹部の不安を井手が押し切り、すぐ全社員に訓示した。「社会的使命を全うすべく、一丸となって挑戦しよう」

 「高くても目の前の物を買え」。私鉄も資材確保に動く中、JR西社員は資材集めに奔走し復旧へと突き進んだ。「一分でも早く、一メートルでも先に」。やがて社会的使命の思いとは別に、ある思いが芽生えた。「これでライバルの私鉄を抜ける」

 壊滅的な被害を受けたJR神戸線の全線開通は、震災七十四日後の四月一日。井手が唱えた三カ月すら要しなかった。誰もが予想し得なかった早期復旧を成し遂げたJR西は、結果的に阪急や阪神から客を奪った。九五年度、単体の営業収益は前年度比7%増と跳ね上がり、過去最高水準へと達した。

 「社長の決断の早さで私鉄より先に工事業者を抑え、劇的な復旧を遂げた」。被災した鷹取工場に勤務していたOBは、さらに続けた。「その復旧劇が、社員におごりを抱かせた」

 ある組合幹部も言う。「経営トップが現場に乗り込み、早期復旧を果たした。それから上意下達の雰囲気が強まった」

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 震災から十年後。JR西の快速電車が尼崎で脱線、線路沿いのマンションに衝突した。スピードを前面に押し出し、かつてのミニ国鉄は「改革の模範生」へと変ぼうしていた。事故の背景に、利益と効率を最優先する同社の体質が指摘された。

 「未来永劫(えいごう)続く」。そう信じられていた経営理念の大幅刷新のため、JR西は全社員を対象にしたアンケートを実施した。山崎らが訴え続けた「安全最優先」の掛け声もむなしく、「安全の確保」を強く意識している社員は七割にすぎなかった。

 JR西が新理念を制定した今月一日。山崎は幹部約三百五十人を前に言い放った。「企業風土を変えるのは簡単ではない。それでも今回変わらなければ、JR西は永久に変われない」

      ◇

 百七人の死者を出し、五百人以上の乗客にけがを負わせた尼崎脱線事故から二十五日で丸一年を迎える。JR史上最悪の惨事に、JR西日本は安全を誓ったが、不祥事は続き、伯備線では社員三人を亡くす事故まで起こした。安全を最優先にする企業風土づくりはどこまで進んだのか。JR西の取り組みと現状を追った。(敬称略)

2006/4/15
 

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