昨年1月、東京23区で最北端の足立区。その団地群は古くから住む高齢者が6割を占める。花壇の手入れをしていた女性は見慣れぬ若者に目を留めた。
「いつ入居したのかな」。身長160センチほど、色白のやせ形。表情はうかがえない。
翌月、週刊誌が「直撃」したスクープ記事を見た。写真の目元は隠されていたがぴんときた。こけた頬、薄い唇、爪先の長い靴。あの子だ-。
「元少年A」、現在34歳。20年前の1997年、神戸市須磨区で5人の小学生を襲い、2人を殺害した。
数日後、団地の自治会長は役員に呼び掛けた。「退去したようなので、以後は話題にしないように」
◆
時計の針を戻す。
97年3月16日、小学4年の女児が頭部をハンマーで殴られ、1週間後に息を引き取った。山下彩花ちゃん、当時10歳だった。
5月27日、中学校の正門前で遺体の一部が見つかった。3日前に行方不明になった小学6年、土師(はせ)淳君=当時(11)。「さあゲームの始まりです」。そばの紙片にはこうあった。
「今でも事件の記事が雑誌などに出ると、体調を崩す友人がいる」。中学時代に同級生だった男性はそう話し、当時を振り返る。
「知識が多く、大人びている印象だった。事件に関与したといううわさはあったが、冗談だと思っていた」
6月4日、神戸新聞社に犯行声明文が届く。差出人は「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)」だった。
実はその数日前、聞き込み中だった兵庫県警の捜査員が職務質問をしていた。当時の捜査関係者は言う。「聞いてもいないのに、1時間近く漫画の話などを一方的にしゃべった。それも小難しい言葉で」。以降、県警は極秘裏に捜査を本格化させた。
6月28日、逮捕。14歳の凶行は「心の闇」として語られた。別の捜査員は述懐する。「淡々と犯行状況を説明した。涙も流さない。理解しがたかった」
◆
8月4日、神戸家庭裁判所で第1回少年審判。弁護団長になった野口善国弁護士(70)も最初は違和感を覚えた。
「何度面会しても表情に動きがない。『家族に何か伝えることは』と尋ねても『別に…』とだけ」
10月17日、最終審判の結論は「医療少年院送致」。収容された関東医療少年院(東京都府中市)では「育て直し」に向け特別な処遇チームが組まれた。遺族の手記を読ませ、反省も深めさせた。
98年、野口弁護士が面会に行くと、初めてお礼を述べられた。99年、2度目の面会では初めて笑顔を見せた。「少しずつ変わっている」と感じた。
審判を担当した井垣康弘元裁判官(77)も毎年訪れた。当初はまったく目を合わせなかったが、2004年3月の仮退院前には「いつでも社会に出られると思うほど会話をつむいだ」と証言する。
そして収容から7年余り。05年1月1日、22歳の元少年は出院した。「生涯を費やして償いたい」と決意を語り、具体的な贖罪(しょくざい)方法も口にしたとされる。
しかし、その日々を見守った同少年院の杉本研士元院長(77)は今、苦しげに言う。「メディアが居場所を探ろうとするなど、迎える社会の側にも問題があったのではないか。彼も頑張り、もう少しで被害者と加害者が次のステップでつながる段階まできていた。だが、あの出版で台無しになった」
15年6月、少年院を出て10年半の空白を経て手記「絶歌」は出版された。遺族らには何も知らされていなかった。
◇
20年前、14歳が起こした凄惨(せいさん)な事件は社会を大きく揺るがした。「波紋」のその後を取材した。(神戸連続児童殺傷事件20年取材班)
2017/3/27