災間にありて 東日本大震災10年
地震自体ではなく、建物が崩れて人が死ぬ。建築家に責任はないのか-。阪神・淡路大震災は、そんな課題を突きつけた。
発生から間もなく訪ねた場所は、神戸市長田区のカトリックたかとり教会だった。毎週日曜日、東京から始発の新幹線に乗ってミサに通い、焼けた教会の跡地に仮設集会所をつくった。
紙の筒「紙管」が建材の「ペーパードーム」だ。安い費用で世界中どこでも手に入る。2004年の新潟県中越地震を機に避難所のプライバシー改善のため、紙管を使った間仕切りシステムも考えた。「前例がない」などという理由で、なかなか受け入れられなかったが、東日本大震災で約2千ユニットが使われた。
災害が起きた時、建築家は街が復興するときの仕事しかしてこなかった。でも、被災者は避難所や仮設住宅で苦しむ。その住環境の改善も建築家の仕事だと思った。神戸での体験がなければ、今の自分がないんじゃないかと思う。
東日本大震災から10年。新型コロナウイルスは避難所の環境改善を迫り、間仕切りシステム導入の事前協定を結ぶ自治体が全国で増えている。一部の地域ではワクチン接種会場の感染防止にも活用準備が進む。
災害対応の課題は東京一極集中だ。今、地方創生やデジタルインフラの整備推進も兼ね、数年置きに中枢都市に首都機能を移す「動都(どうと)」を研究している。既に研究会を立ち上げ、今秋にも提案を本にまとめたい。
■避難所の住環境改善。神戸で悲惨な被災者見たから
-なぜ阪神・淡路大震災の被災地に向かったのか。
「震災前年、ルワンダ難民の支援で動き始めていた。難民問題に興味を持っていたこともあり、震災のニュースでカトリックたかとり教会(神戸市長田区)に元ベトナム難民の方が集まっているのを知って、元難民の方はもっと大変な生活をしているのではと思い、教会を訪ねた」
「神戸で活動した後は疲れ果て、二度としたくないと思ったが、賞をいただくなど後押しされて、一般建築と災害支援を活動の両輪にしていこうと決めた」
-現在力を入れている避難所の間仕切りシステムも神戸がきっかけに。
「神戸の避難所で被災者の悲惨さを見た。そのときはベトナム人被災者のための仮設住宅や『ペーパードーム』づくりで手いっぱいだったが、新潟県中越地震(2004年)で初めて間仕切りの活動を始めた」
「プライバシーがない避難所では生活できずに車中泊し、多くの人がエコノミークラス症候群で亡くなっていた。避難所は小さな町と考え、間仕切りで大通りや小道を作り、世帯によって面積を決めることで秩序も生まれる」
-東日本大震災で初めて活用された。
「当初は『前例がない』と相手にされなかったが、災害のたびに改良を重ねてきた。新型コロナウイルスが問題になってからは、避難所での飛沫(ひまつ)感染防止のために備蓄する市町村が増え、全国で50近い自治体と協定を結んだ。国も備蓄をしていて、昨年7月の九州豪雨では、すぐに被災地に提供できた」
-東日本では宮城県女川町の駅舎なども設計した。
「津波で、使える土地が少なくなっていた中で、コンテナを積み上げた3階建ての仮設住宅を提案し、町に採用された。仮設住宅の住民へのアンケートで、銭湯を求めていることが分かり、温浴施設付きの駅舎を設計した。その縁で、福島県南相馬市で作家の柳美里(ゆうみり)さんが開いた本屋を学生と一緒につくった」
「一方で、福島第1原発の周囲は住民が戻らない町のために巨額が投じられ、防潮堤が造られた。これからどうしていくのか、真剣に考えないといけない」
-今後も災害が予測される。建築家としての役割は。
「新たに『動都(どうと)』の研究を始めた。首都の一部の機能を移すのは、災害支援の意味でも、地方創生の意味でも重要。だから、五輪のように4~5年置きに、立候補した中枢都市に木造国会議事堂を移転する案だ」
「五輪は鉄道や高速道路などのインフラ整備を促進したが、これからのインフラはデジタル環境だ。勉強会も立ち上げた」
-神戸・三宮駅前の再開発ビルも手掛けている。
「いろいろな機能が一緒に入っているのが複合施設だが、それぞれが関係する運営の仕方ができるようにと考えている。意匠的な奇抜さではなく、機能的に新しい、神戸の新たなシンボルにしたい」
(聞き手・高田康夫 撮影・西岡 正)
【ばん・しげる】1957年、東京都生まれ。NPO法人「ボランタリー・アーキテクツ・ネットワーク(VAN)」を設立し、建築を通じて被災地の支援活動を続ける。2014年、建築界のノーベル賞といわれる「プリツカー賞」を受賞。慶應義塾大環境情報学部教授。
2021/2/17