災間にありて 東日本大震災10年
突然、どーーーーん、と。あのすさまじい音を今でも覚えている。阪神・淡路大震災では、音と上下の揺れが激しかった。
1995年1月17日は神戸市垂水区の自宅マンションにいた。当時はフリーライター。震災発生の30分前まで原稿を書いていて、ベッドに横になった直後だった。7階建ての1階。家の下が震源地かと思うほど突き上げられ、「天井が落ちてきて死ぬ」と思った。
意外と冷静で、恐怖より怒りが大きかった。こんな死に方をするんか、神様おるんやったら出てこい、と。日ごろは神や運命を信じていないのに。
東日本大震災でもそうだが、震災で亡くなる人と生き残る人の差には何のルールもない。偶然しかない。でも、生き残った人は良かったと思う一方で、なんで、と考えるようになる。
私もそうだった。淡路島の震源地は自宅から10キロも離れていない。マンションでも家具に押しつぶされ亡くなった人もいる。私は奇跡的に助かった。時間がたつにつれ、小説を書くために生かされたと思うようになった。生き残ったもやもやや、後ろめたさもあったかもしれない。そう思わないと、前に進めなかった。
生き残った人の気持ち、災害で浮き彫りになる社会構造の問題や行政対応による被害…。小説家として、いつか書かなくてはと思っていた。ただ、何を書くべきか定まっていなかった。
そして、東日本大震災が起きてしまった。
■阪神・淡路が出発点。原発事故で腹をくくった
-東日本大震災が発生する前から、中国の原発建設を描いた小説「ベイジン」で事故の危険性を指摘。震災当時は、原子力産業を扱った連載「コラプティオ」の最終回を執筆中だった。
「だからこそ、福島第1原発事故には大きなショックを受けた。何でこんなアホなことが起きんねん、と。電力会社や国の対応に怒りが湧いた」
「震災直後、中国が自分たちのつくる原発は世界で一番安全だと言いだした。是非はどうあれ、日本の原発の技術力は高い。中国への反発もあり、あえて日本の原発を書き切ろうと思った」
「結局、『コラプティオ』の最終回は事故を含めた内容に書き直し、原発を輸出するエピソードを入れた。(反原発の世論を考慮して)反対する編集者もいたが、小説家生命を失う覚悟で問題提起をしたかった。あれをきっかけに小説の書き方が変わった」
-どう変わった?
「タブーをなくした。原発を含め、これまでタブー視されてきた社会問題について意見を出していこうと腹をくくった。2004年のデビュー以降、震災を書いていなかった。何で小説家になったんや、と自問した。小説で誰かを傷つけることもあると気を使ってきたが、それでは世の中は変わらない。恐れず社会的発言もするようになった」
-14年、初めて震災を題材にした「そして、星の輝く夜がくる」を刊行した。阪神・淡路大震災で家族を失った教師が、東北の被災小学校に赴任する。
「主人公はピュアで鋭い子どもたちと情熱的な大阪人。執筆のかたわら、数カ月おきに被災地に行き、毎回同じ地点を訪れた。変わる街並み、変わらない風景を前に何を思うか。取材対象は自分だった」
「『偽善者』と、批判も受けた。(経済小説家の)キャリアを捨てる気か、書くなら『復興庁とファンドの対立』でしょう、とも。でも、ヒューマンストーリーではない。原発で働く親がいる児童へのいじめや震災遺構、ボランティアの問題などリアリティーを持たせた。一方、子どもたちが標準語を話すのは、被災地を限定したくなかったから。東北の読者から『ここはうちの街だ』との感想を多く頂いた」
-17年の続編に続き、今年2月に最新刊「それでも、陽は昇る」を出した。
「続編を書く気はなかったが、去年、阪神・淡路から25年となり、神戸を書き切れていないというじくじたる思いが生まれた。当時をよく知る記者や被災者、災害研究の研究者たちに話を聞いた」
「自分は何も分かっていなかった。伝えるべきことは何か。今も震災の問題は続いていて、答えを見つけられず苦しかった。何度もやめたくなった。原稿を真っ赤に書き直しながら、耳にした言葉を参考に、自分なりの答えを込めた」
「ライフワークは自分で選ぶものだと思っていたが、私にとってはそうじゃない。阪神・淡路が出発点。どんな形であれ、今後も向き合っていく」
(聞き手・末永陽子 撮影・園田高夫)
【まやま・じん】1962年、大阪府出身。同志社大法学部卒。読売新聞記者、フリーライターを経て、2004年、小説「ハゲタカ」でデビュー。エネルギー問題にも関心が高く、地熱発電に関する作品も発表している。近著に「ロッキード」など。神戸市垂水区在住。
2021/2/22