太平洋戦争の終結から1年3カ月後の1946年11月、米軍が明石市上空で撮影した航空写真。現在の山陽電鉄林崎松江海岸駅南側に当たる明石市林崎町3と松江付近を拡大すると、人工的な円形の構造物を10個ほど確かめることができる。
近くにあった川崎航空機明石工場(現・川崎重工明石工場)を空襲から守るため、旧日本陸軍が設営した林崎高射砲陣地。元小学校教員の神足徹雄さん(83)=貴崎5=によると、明石工場の従業員寮や荒地だった場所を更地にして次々と建設された。
当時県立第四神戸中学校(現・県立星陵高校)の生徒だった元高校教員の山田勝己さん(84)=神戸市垂水区=は44年4月から7月ごろまで、250人ほどの同級生と学徒動員で自宅から通い、建設に携わった。兵士からスコップともっこを支給され、土を掘っては南京袋と呼ばれた麻袋に入れて2人一組でかつぐ。
「重さは30キロ以上あった上に慣れない仕事だったから、肩が痛くて痛くて。さぼろうと思えばさぼれたが、兵隊さんが一生懸命だったから、私たちも早くしなければと思った」
高射砲陣地には一門当たり高さ約5メートル、周囲約50メートルの土塁が築かれ、兵士と生徒らが運んだ南京袋が積み重ねられた。完成したら中央に75ミリ砲が据え付けられた。
神足さんは草刈りの作業で陣地に入った。当時、若い男性はみんな召集されていた。草刈りの担い手は残っている女性や子ども、お年寄り。土塁の周囲では、B29の模型を取り付けた長さ4~5メートルの竹棒を1人が持ち、砲手が照準を合わせる訓練が行われていた。
山田さんはあるとき、弾は何メートルくらいの高さまで到達するのか兵士に尋ねたという。返ってきた答えは「7千メートル」。日本の飛行機が飛ぶのは高度3千~5千メートル。山田さんは「米軍機を十分に撃ち落とせる」と性能を頼もしく思いながら、次の学徒動員先になった鷹取(神戸市須磨区)の機関車工場へ移った。
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当時の様子をうかがわせるものがほとんど残っていない林崎高射砲陣地。建設当時の姿を知る人や、今も歴史を受け継いでいる人の姿を紹介する。(井原尚基)
2015/8/13