太平洋戦争の激戦地の一つで、日本軍が「墓島(ぼとう)」と呼んだブーゲンビル島。1944(昭和19)年夏、元陸軍少尉の遠藤毅さん(93)=西宮市=は、米豪連合軍との戦闘の最前線にいた。
「ジャングルって、普段はもう、うっそうと木が生い茂っていて空が見えないんだな。木にはかずらなんかが巻いてて、薄暗い。だから、こっちの陣地も遠くからは分からんのやけど、敵は斥候を出してくるから、見つかった途端に攻撃が始まる」
「それも夜は絶対になかった。朝方にワーッと攻めてくるのが多かったな。直接、歩兵が攻め込んでくるのは、2週間に1度くらいやった。何が何でも、こっちの陣地を攻略するいう感じやなくて、こっちの反撃で向こうに被害が出たら、すぐに引き揚げていった」
旧防衛庁防衛研修所戦史室がまとめた「戦史叢書(そうしょ)」によると、当時連合軍の主力だった米軍は、島西岸のタロキナに建設した飛行場の守備に主眼を置いていたとされる。このため、接近戦よりも砲撃で日本軍を攻め立てた。
「昼夜の関係なく、めちゃくちゃに撃ち込んできた。1日にどれぐらいやったか。何百発じゃきかんぐらいやった。暗かったジャングルも3、4日で、ぱーっと明るくなったな。細い木やかずらは木っ端みじんになって、何抱えもあるような太い木だけが、地上5メートルぐらいの高さで、ポツポツと残っている程度やった。それを見て、『あー、あんなでかい木があったんや』って気付くっちゅうわけやな」
「地面は、砲撃で散った葉っぱが10センチぐらい積もって、緑のじゅうたんを敷いたようになる。それでも、墓島は赤道近くの南緯6度半の島や。3日もしたら、きつい日差しで枯れて茶色くなってまった。そのうち何もかもなくなって、僕らの陣地の周りは半径50メートルぐらいは、一木一草(いちぼくいっそう)なくなってしまう。敵の砲撃が始まって2週間もしたら、そんなんやった」
日本軍は砲撃を受け丸裸になった陣地を捨て、後方のジャングルに退く。しかし新しく築いた陣地も、すぐに砲撃で壊滅に追い込まれる。その繰り返しだった。命を落とすのは日本兵ばかりだった。
(小川 晶)
2014/8/14