「墓島(ぼとう)」と呼ばれた激戦地、ブーゲンビル島の戦闘で、元陸軍少尉の遠藤毅さん(93)=西宮市=は3回にわたって計5カ所に敵弾を受けた。マラリアにもかかり、生死の境をさまよった。それでも生還できた理由の一つを、母サエさんの願掛けに求める。
「僕が出征しとる間、おふくろは朝晩必ず台所にある神棚の前で長い祝詞をあげとった。さらに家の東にあった井戸で、腰履き一つで冬も夏もなしに水ごりや。それから山の小さな地蔵さんところにお参りして」
「おふくろは、それを毎日毎日、続けてくれとったんやな。『絶対、死なせへん』と。だから僕が復員したときも、喜びもせえへんかった。当たり前やと。終戦から半年ぐらいたっても僕が帰ってこんから、集落のみんなが『毅さんは死んだ』ってこそこそ言うてても、平然としとったって」
遠藤さんは、1921(大正10)年7月、岡山県浅口郡六条院村(現・浅口市)で、6人きょうだいの長男として生まれた。父の市郎さんは農業の傍ら、麦わら帽子や菊の仲買、電灯料金の集金などの副業で生計を立て、サエさんは朝から晩まで畑で働いた。
「貧乏百姓やったけど、3食のうち1食が欠けるとか、そういうんはなかった。ご飯は麦飯で、すき焼きいうたら馬の肉。秋は畑でとれたサツマイモをよう食べたな。おふくろには『遊びでも何でも、大将でなきゃあかん』って教えられた。僕自身は、特別かわいがられた思い出はないんやけど、2人の姉なんかは、やいとったらしい。『長男の毅ばっかりひいきして』って」
「よう『勉強せえ』とは言われたな。子ども6人全員を、5年制の中等教育まで進ませてくれた。僕らの地元だと、6年制の尋常小学校を50人出たら、中等教育に進むのは4、5人ってとこやった。両親が『あそこの田んぼを売った』『売らんでもええのに』って、けんかしとったのを覚えとる。学費を捻出しとったんやろうな」
遠藤さんは、六条院尋常高等小学校を経て笠岡商業学校(現・笠岡商業高校)に進学した。在学中の1937(昭和12)年、日中戦争が始まる。三八式歩兵銃を手に、軍事訓練に励んだ記憶がある。(小川 晶)
2014/8/23