1944(昭和19)年12月末、ブーゲンビル島(墓島(ぼとう))での戦闘で3発の銃弾を受け、負傷した元陸軍少尉の遠藤毅さん(93)=兵庫県西宮市=は、所属する歩兵第81連隊の拠点、ヌマヌマの病院に入る。そして45年7月、発症したマラリアが完治しないまま、近くの陣地の守備を命じられた。
「本心ではもっと休みたかったけど、第一線の経験がある将校が、もうおらんかったんやろうな。銃弾が貫通した右膝も治ってへんし、まともに歩けへんから、部下が僕の腰にロープを巻き付けて、引っ張るように連れて行ってくれた」
「川沿いの陣地に着いたら、京都の衛生兵が10人ぐらいおる。治療が専門のもんが銃を握っとるわけやけど、僕のようなけが人が一線に出されるぐらいやし、不思議にも思わんかった」
8月初旬、遠藤さんらが潜む壕(ごう)の50メートルほど先で、英語で話す声が聞こえた。
「敵もここまで来たかと思ったね。墓島上陸直後に負傷して、治ったらジャングルの最前線に放り込まれた。そこでも撃たれ、マラリアにもかかって。生きとるけど余命も長くないなと。『ここまで生き延びたのに』なんて思いはないよ。いずれは死ぬ。早いか遅いかの違いとずっと思ってきたからな」
「数日たった朝やった。ボーン、ボーンって撃ってくるいつもの砲弾が一発も飛んでこうへん。『静かやな』って思うとったら、連合軍の飛行機が飛んできて、ジャングルが真っ白になるくらいビラをまいていったんや。『日本、無条件降伏す』って、カラー印刷で書いてあった」
「連合軍はこれまでも『八幡製鉄所に空襲』とか、『ルソン島に上陸』とか、そういうビラを日本軍の陣地にばらまいとった。写真入りやったから、僕らも戦況の悪化は疑いようがなかったし、無条件降伏いうんはほんまやと思ったよ。『助かったー』って大声で叫んだ。周りの兵隊も『よかった、よかった』って喜び合っとる。僕の陣地の兵隊で、泣いて悔しがっとるようなもんは一人もおらんかったな」
捕虜になった遠藤さんは46年2月、佐世保(長崎県)に帰国し、武田薬品工業に復職した。「今の平和があるのは、戦死した英霊のおかげ」と思いながら、戦後を生きてきたという。
(小川 晶)
2014/8/30