1944(昭和19)年秋、ブーゲンビル島(墓島(ぼとう))西岸のタロキナを拠点とする米豪連合軍の主力が、米軍から豪軍に代わった。これを機に連合軍は拠点の守備重視から、日本軍撃破に方針を転換する。元陸軍少尉、遠藤毅さん(93)=西宮市=が率いる十数人の小隊も後退を迫られた。
「44年の年末ごろだったと思う。最前線がこらえきれなくなって、600~700メートル後ろの中隊の拠点まで退いた。僕らは陣地を取り戻すために夜襲をかけたんやけど、失敗して尻を負傷した。それでしばらく養生することになって、横穴に寝転がっとった。中隊の拠点いうても赤チンも包帯もない。ただ横になって、コプラを食べて血が止まるのを待つだけやった」
コプラはヤシの実から作る保存食で、ジャングルの草が主食だった日本軍にとって貴重な食料だった。遠藤さんが休んでいたときのこと。コプラが5個、なくなる騒ぎがあった。
「若い1等兵が盗み食いしたことが分かって、中隊長の中尉が銃殺を命じた。罪は罪かもしれんけど、配給の糧秣(りょうまつ)が満足にないんがそもそもおかしい。中隊長に2回ほど『日本人が日本人を殺したらいかん』って進言した。けど中隊長は聞き入れんかった」
「軍隊で上官の命令は絶対やから。変なことになっても具合悪いな思うて、もうそれ以上は言わんかった。まあ殺されはせんけどね。中隊長は将校としてのプライドもあったし、まだ陣地に来てすぐの人やったから、威厳を保ちたいというのもあったと思う」
その1等兵は、神戸出身の小柄な兵士だったという。
「悪いことをしたいう気持ちはあったやろうけど、彼もまさか死刑になるとは思ってなかったはず。それでも前線近くにおったし、味方に殺されるか敵にやられるかは別にして、いずれ死ぬいうことを覚悟しとったんやないかな」
「1等兵はスコップで自分の墓穴を掘らされた。衰弱しとるから、なかなか掘れへん。僕は目の前で見とった。暴れることもせんし泣くわけでもない。無表情やった。掘り終わると、中隊長から命令を受けた将校が、1メートルぐらいの距離で心臓に銃を向けた。1等兵は悠然としとったな」
(小川 晶)