1944(昭和19)年夏、「墓島(ぼとう)」と呼ばれたブーゲンビル島にいた元陸軍少尉の遠藤毅さん(93)=西宮市=が、戦場最前線の劣悪な食糧事情を振り返った。
「最初のうちは、米の配給が1日に70グラムあった。半合ぐらいやな。それが50グラムになって、さらに少なくなってイモの切り干しに変わった。これはデンプンが取れるからまだええんやけど、それもなくなったら、コプラになった」
「コプラは地面に落ちたヤシの実から、皮の内側の白い部分をはがして乾燥させたもの。さいころみたいに1センチくらいの立方体に切って、保存食にする。味もほとんどない、ただ硬いだけ。かみ砕いて、嚥下(えんげ)して。それでも脂肪分が含まれとるし、胃袋に入ると少しは満腹感があるわけやな。排せつすると、臭いはせんと、白いまま出てきた」
墓島の日本軍は44年3月、米豪連合軍の拠点タロキナに総攻撃をかけた。旧防衛庁の「戦史叢書(そうしょ)」によると、この段階で食糧はほとんど消尽、ラバウルからの補給も途絶していた。保存食のコプラでさえも貴重な食糧だった。
「主食はジャングルに生えとる草やった。うまくも何ともない、草の味。空腹だから入れるだけ。それでもな、年がら年中、食べられる草を探しとった。人やない、牛の目になって、よーく観察する」
「よう食べたんが、日本の『ミズ』いう山草に似とった草で、『ジャングル菜っ葉』って呼んどった。群生しとるし、毒がないからよう食べた。砲撃の穴にたまったスコールの水を飯ごうにくんで煮る。ジャングル菜っ葉を採りに行ったり、水をくんできたりするのは部下の兵隊の役目。砲弾の合間を縫って行くから命がけやった」
タンパク源は、壕(ごう)に入り込んでくるトカゲで補った。
「ジャングルのトカゲは、大きいやつで20センチぐらい。ジャングル菜っ葉と一緒に飯ごうに放り込んで煮ると油がとっと浮いてな、おいしいんや。小さいやつやったら、そのまま食べる。魚みたいな食感や。歯ごたえはあるけど、軟らかい。今やったら考えられへんかも分からんけどな、『食えるのか』という発想やない。とにかく『食う』。生きるために」
(小川 晶)
2014/8/16