第6部 慟哭のホラン河~満州開拓団集団自決~

(12)地獄はこのことと思った

2015/02/26 10:30

 1945年8月17日午前10時ごろ、雨で増水した旧満州のホラン河で、高橋村(豊岡市但東町)の開拓団員たちの自決が始まった。当時12歳だった山下幸雄さん(81)は、兄と背中合わせになって体をゲートルで縛られ、河に飛び込んだ。

 「おやじが『1、2、3で飛び込め。背中を押すから。なるべく向こうに押すから』と言って。兄貴と一緒に『よし行こう。天皇陛下、ばんざーい』と叫ぶと、ドーンと押してくれました。いっぺんに水を吸って、頭の中が真っ黒な物体でいっぱいになったような感じがして、これは頭が割れるなと思ったら、意識が全然なくなりました」

 「気付いたら柳の木にしがみついていて、そばに意識のない兄貴がいました。『うまいことやったな』と思って、ゲートルをほどいて水の中に沈めてやりました」

 両親と妹、弟の姿は見えなかった。山下さんは自分も死のうと、何度も試みた。

 「死ななきゃならん、死ななきゃならんと思うんですけど、体はそうはいかん。泳げてしまって。同じように『死ねれへんかった』という男の子が4人ぐらいいました。それで刀持った団の幹部に首切ってもらおうと頼みにいくと『後で切っちゃる。今は忙しい』と言われました」

 「飛び込んだ後に両親の姿が見えたのを覚えとります。こっちを見ずに走るような姿でした。わが子が苦しんどるのを見たくなかったんだろうけど、なぜ最後まで確認せずに行ってしまったのか。私だけ生き残ってしまい、後でずいぶん恨んだりもしました」

 そこへ、中国人が自決を止めようと駆けつけた。但東町教育委員会発行の冊子「国策に散った開拓団の夢」に収められた手記によると、逃避行のさなかに粟(あわ)飯(めし)を振る舞ってくれた集落「双合屯(そうごうとん)」の屯長だった。

 「向こうから中国人が来て『スワラ、プシン』と叫んどりました。スワラは『死ぬ』、プシンいうたら『あかん』。死んだらあかんということです。私は真っ先に聞いたんですが、みんなに伝達しようとなっても自決現場は広いですから。入水は続いとりました。地獄とはこのことなんだろうと思いました」

(若林幹夫)

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