高橋村(豊岡市但東町)の開拓団員の多くは全財産を売って旧満州に渡ったため、引き揚げ後は困窮を極めた。1947(昭和22)年9月には、資金の貸し付けなどを求める嘆願書が村に出されている。13歳になった山下幸雄さん(81)は、資母(しぼ)村(但東町)の母方の親類に預けられた。
「のこのこ帰ってきて世話になるつらさは心の中にありました。資母村の親類には男手がなかったんです。炭焼きから何から、ずっとやってました。私には一日もはよ高橋村に帰り、山下家を継がなきゃならんという大目標がありました」
「近くの子どもらに『勉強教えちゃるから教科書を持ってきてくれ』と言って全部読みました。難民収容所にも図書館があって、1人で読んでました。算数も科学も、どんな本でもありましたし、字引もあって国語力はついてましたんで、その点は助かりました」
農業の手伝いで資金をため、18歳のときに高橋村の診療所跡を買って独立を果たす。その後も、農業以外にミシンの営業やヒツジの毛刈りに従事し、夜間と通信教育で8年かけて高校を卒業。34歳のときには東京農業大学の学士を取得した。
「私には何もないんでね。満州に行くまでの土地を一代で買い戻したいと、気構えというか異様な執念がありました。人よりもうけなあかんという考えが常にあった。開拓団の話は地元でも上がらんかったです。古傷に触るというか、気の毒なということもあったんでしょう。私も触れたくないというのはありましたで」
石坪馨(かおる)さん(86)は祖父母が住む自宅や、少ないながらも田畑があった。とはいえ農業では生活できず、炭焼きや材木出しをした。
「数えで20歳になって、何か身につく仕事をしたいと思い、通信教育でラジオとテレビの修理や組み立てを勉強したんですな。大阪の放送局に受かったけど、一番下の弟が中学生やったで、じいさんとばあさんに押し付けて大阪へ出るのもなあ、と断ったんですわ」
「ラジオや炊飯器、湯沸かし器の行商をして、東京オリンピックが近づいたらテレビを売って。開拓団のことはあまり話しませんでしたな。ただ引き揚げてきたもんとは『死ぬるような苦労を思えば、いくら苦労しても平気だろうで』と励まし合ってきたんですな」
(森 信弘、若林幹夫)
2015/3/2